2006年3月11日,晴天に恵まれた奈良県明日香村では,飛鳥京跡現地説明会,島庄遺跡現地説明会,石神遺跡現地説明会が同時に行われた。古代史ファンらがたくさん訪れ,明日香村でにぎやかなお祭りでも開かれているような感じだった。普段なら自転車で巡る遺跡も,春の暖かさが大変気持ちよく,歩いて各会場を回る人が多かった。初めて飛鳥に来たような観光地図を手に持った人たちを見かけたが,この賑わいに戸惑っているようだった。いつもなら伝板蓋宮跡をバックに写真を撮っている姿を見るが,この日は遺跡にシートを敷いて座り込んで弁当を食べている人が多く,いい位置で写真を撮ることは難しかったようだ。マナーの悪さも目立った。自分の世界に入り込んでいて周りがよく見えていないと,人に大変な迷惑をかけたり不快な思いをさせたりしてしまう。自分も気をつけたいと思う。


飛鳥京跡第155次調査 現地説明会
(奈良県高市郡明日香村岡)
2006年3月11日

 昨年確認された飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の正殿跡の北側で橿原考古学研究所によって発掘調査が進められ,その報告会が現地で開かれた。今回発掘された建物跡は前回(昨年)の発掘でわかった建物跡と規模や構造が同じで,また,同じ時期に建てられていたものと考えられ,天武天皇の私的空間と見られている。つまり,前回の発掘で確認された大型建物の北側に同じ建物が建っていたことになり,飛鳥京の正殿と考えられるこれらの2棟は南北で対になるよう配置されていた。現地説明会では今回の発掘で「都の中枢部の建物配置を確定した」と報告していた。

発掘現場全体(画像を結合後フィッシュアイレンズ修正)
調査したところは通路をはさんで2か所
北側は建物1・2,南側は建物3,建物1・2は廊下のような施設

南東角から見る
このような石組みの溝はこの建物の北側でも見られる。この南側は石敷き広場になっていたはずだが,後の時代に石が取り除かれたらしい。

建物1前の石組み溝と柱穴
東西方向の石組み溝は比較的よく保存されている。飛鳥は水の都でもあると言われるように,この細い溝を水が流れていたのであろうか。

建物1の中軸線
建物1の発掘は西半分になる。多分東半分も中心線に対して対称的で同じ構造と考えられるので,この建物の大きさは東西約24m,南北約12mとなる。南北にひさしが張り出す切り妻造りの建物と考えられている。

建物2跡と南西角の幢幡(どうばん)施設跡
旗を立てた幢幡施設や柱を抜き取った跡が見られた。
幢幡施設は南西角と北西角にある。おそらく,土の中の北東角,南東角にも同じものがあると考えられる。

建物3
建物3の大きな柱跡からは焼けた土が発見されたので,この建物が火災で焼けたことになる。飛鳥岡本宮は636年に焼失,飛鳥板蓋宮は655年に焼失している。この建物3の調査によって,宮が確定されるであろう。


島庄遺跡2005-12次調査
(奈良県高市郡明日香村島庄)
2006年3月11日
 石舞台古墳の西,飛鳥川の川辺に蘇我氏の邸宅があったとされる。庭には池があり,その中に嶋があった。よって,人々は蘇我馬子を嶋大臣とよんだ。この地には天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子が住んでいた嶋宮もあった。以前より明日香村教育委員会が嶋宮の範囲を確認する調査を行っており,石舞台古墳西の駐車場下からは複数の建物跡が見つかっている。今回はその50m北での調査で,石組み溝や方形の柱穴などが発見された。

調査区全景

塀の柱列跡 西から
7世紀中ごろの柱列跡で,直径20~25㎝の穴が東西方向に約6.5m見つかった。

塀の柱列跡 東から
この配列は北から約50度で,以前に発掘された建物の関連が調べられている。

石組み溝跡(幅約30㎝)
幅・深さとも30㎝,8mの長さで見つかった
 
島庄遺跡第31次調査
(奈良県高市郡明日香村島庄)
2006年3月11日
石舞台古墳の東では,道路建設に伴う遺跡の調査が行われていた。石舞台古墳より一段高い棚田にあり,近くにはベンチも置かれ,古墳を見るには最高の場所でもある。この小高い丘から建物の柱穴が多数見つかった。

左-今回の発掘地
右奥-石舞台古墳
7世紀前半の建物群跡などが見つかった石舞台古墳の東の丘。
発掘された2段の内の上の段
この柱跡の並び方の方位は石舞台古墳の主軸とほぼ一致しているという。
蘇我馬子の墓を造る際,近くに宿舎を建てたことが日本書紀に書かれているためその可能性が出てきた。
石積み
点在する柱穴
下側の大型柱跡
四角形の1辺は1.8m,深さ1.8m,直径30㎝柱の柱穴の跡がある。


石神遺跡18次調査報告
(明日香村飛鳥)
2006年3月11日
 石神遺跡は古代の迎賓館的な役割を持つ施設の跡といわれ,飛鳥寺の西,水落遺跡に隣接する位置にある。ここで新たな発見があり,奈良文化財研究所によって現地説明会が行われた。
今回大きな話題となったのは,観音信仰の仏典「観世音経」の文字が書かれた7世紀の木簡が発見されたこと。また,祭祀に使われたと考えられる銅製の人形などが見つかった。

発掘現場全体(画像を結合後フィッシュアイレンズ修正)
 
観世音経十巻記白也
己卯年八月十七日白奉経
出土木簡に書かれていた墨書文字
己卯年は679年(天武8年)
  
石神遺跡を見る。真ん中,白いテントが見える場所が今回の発掘地。
この田の下にも何か埋まっているにちがいない。多分古代の道跡か?
発掘地の南東角から北西方向を見る。石敷きの跡や溝が見える。この溝(南北溝)はさらに北にのびる。
北西の区画
石敷きが見える。写真下の石は溝の護岸と思われる。
中奥に見える森は雷丘,最近整備されて上に上ることができる。
上の写真の真ん中部拡大木製の舟形や銅製の人形が出土した地点。
南西角から北東を見る。
土器の出土状況
 
出土物の展示と銅製人形のスケッチ
出土品も展示されていた。木簡は撮影が禁止されていた。個々の出土品の写真掲載は許可されていないので,全体の展示の様子だけ掲載した。
木簡,木製舟形,串の他,下駄など生活に使われていた木製品が出土した。墨書土器には「寺」という文字がはっきりわかった。