「壬申の乱」の経過

(このページは画像が多いため表示に少し時間がかかります)
脱出図

−大津を出て吉野へ−

大津でのこと
671年
10月17日

大海人皇子 大津を出て吉野へ
 病に倒れた天智天皇は天智10年(671年)10月17日,蘇我安麻呂に命じて大海人皇子に宮に来るように伝えた。それは天智天皇の後の皇位について相談するためだった。病床にあって天智天皇は大海人皇子に対して「皇位を継いでほしい」と頼んだ。これは本心ではなく,大海人皇子の反応を見たかったのであろう。これに対して大海人皇子は,皇位を自分に譲る気はないと天智天皇の本心を悟っていた。そのため,大海人皇子は自分の体調が悪いことを理由に断り,皇位は皇后(倭姫王:やまとひめのおおきみ)に,大友皇子を皇太子にと願った。そして,自分は出家したいと申し出た。天皇はこれを許したので,大海人皇子はすぐに退室し,宮中の仏殿の南で髪を切り,僧の姿となった。
 このことを伝え聞いた天皇は大海人皇子に僧の衣装である袈裟(けさ)を送った。

 実は大海人皇子が宮に入る前,迎えに来た蘇我安麻侶から天皇の言葉には「用心して返事するように」と聞かされていた。また天智天皇はすでに息子の大友皇子を太政大臣にしているから,皇位を弟の大海人皇子に譲る気はないと考えていた。皇位継承を断るということは天智天皇の意を悟った上での返事だった。

 
 2日後の19日,大海人皇子は天皇の前で吉野に行って仏道の修行をしたいと願い出た。天皇はこれを許したので,すぐに都を出てこの日のうちに吉野に向かうこととなった。

 当時の吉野は聖地だった。
大津京模型
大津京模型(クリックで拡大)(大津歴史博物館許可)



錦織遺跡(滋賀県大津市)↑↓
10月19日午前  武器を返し,剃髪(出家)した大海人皇子は10月19日,妃の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)や草壁(くさかべ)皇子と忍壁(おさかべ)皇子,数人の舎人(とねり−身辺を警護する人)を伴い都を出る。70人ほどだったと言われている。(高市皇子や大津皇子らは大津京に残る)
 大津京から奈良への道は,長等山を越えて京都府山科へ入り,桃山から宇治へと続く国道1号ルートが考えられる。
長等山
長等山と大津京域を琵琶湖上から見る
飛鳥を経て吉野に向かう「翼をつけた虎」
10月19日午後

「翼をつけた虎」
 宇治まで舎人(蘇我赤兄臣そがのあかえのおみ,中臣金連:なかとみのかねのむらじ,蘇我果安臣:そがのはたやすのおみ)たちが菟道(うじ:京都府宇治市)まで見送った。
 別れ際,舎人たちは大海人皇子の吉野行きを「翼をつけた虎を野に放したようなものだ」と言っていた。
 大海人皇子一行と見送りの舎人たちが分かれた場所は宇治橋付近だと言われている。

 この舎人たちは大海人皇子たちの行き先を確かめるために朝廷に命令されて従ってきたのだとも考えられる。
宇治橋
宇治川と宇治橋(京都)
10月19日夜

飛鳥「嶋宮」
 10月19日の夕方,飛鳥の嶋宮に到着し,この日はここで一泊した。
 嶋宮は元は蘇我馬子の邸宅で,馬子の墓とされる石舞台の北西100mぐらいの場所にあったと推測される。

 やや不思議なのは,大津からこの奈良の地まで80q近くある。歩くには遠いので馬を利用したのかもしれない。
嶋宮
嶋宮のあったあたり
飛 鳥  飛鳥という地名はこの地を拓いた渡来人と深い関係があるらしい。朝鮮半島からの渡来人たちが5世紀頃から定住し始め,田畑をつくった。今でも何枚もの棚田が山の斜面狭しと広がっている。古代朝鮮語に「アンスク(安宿)」という言葉があるという。飛鳥はこの言葉が元になっているのだろうか。(参考 『ロマン紀行 壬申の乱』椎屋紀芳) 棚田
棚田(明日香村)
10月20日午前

飛鳥川
 嶋宮を出た後の大海人皇子一行は,飛鳥川沿いの道を通って吉野に続く山に入ったであろう。 明日香村の稲淵宮跡近くの飛鳥川には石橋が残っていた。川を渡るのはその上をまたいで造る木の橋とばかり思っていたが,当時はこのような石橋が多くあったようだ。

万葉歌碑

「明日香川 明日(あす)も渡らむ 石橋(いしばし)の 遠き心は 思ほえぬかも」 
飛鳥川
飛鳥川と万葉の石橋(明日香村稲淵)
余談

役行者像
 稲淵−栢森から芋峠に向かう途中の山道に役行者(えんのぎょうじゃ)像がひっそりと立っている。痩せた体に高下駄は他の石像には見られないほどリアル。これには 右よしの山上 左ざいみち と記されている。
 役行者は役小角(えんのおづぬ)という謎の人物で,修験道の祖とされる。「続日本紀」にも登場し,葛城山に住み呪術を使い鬼神を従える役行者は多くの大和人を救ったらしい。 

役行者像
峠越え  10月20日に飛鳥から吉野につながる山道に入り,芋峠を越えて吉野に入る。竜門岳,高取山の尾根を通る道で,今も細く曲がりくねった道が明日香村と吉野を結んでいる。高い木が数多く茂っている山深い道は昼でも暗い所がある。県道15号の峠には数体の小さな地蔵のある祠が建っていた。
 これとは別に壷坂を通ったという説もある。しかし,遠回りではないか。確かに芋峠越えの道は険しいが距離は短い。吉野へ急いだ大海人皇子は時間を優先して芋峠を通る古道を通ったと推測した。


後に天武天皇がこの時のことを回想して作ったた歌が残っている。
「み吉野の 耳我(みみが)の嶺に
時なくぞ 雪はふりける
間(ま)無くぞ 雨はふりける
その雪の 時なきがごと
その雨の 間なきがごと
隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を」

峠への道はこのように幅が狭い
芋峠
県道15号 吉野明日香線 芋峠


古道を通って芋峠へ
(県道の芋峠付近にある案内板

芋峠古道
余談

芋峠より
 峠を越えたところが少し開けていて大峰(おおみね)連山の眺めがいい。
 大阪府立大学OBでつくる壬申の乱研究会が嶋宮から芋峠越えで吉野の上市まで5時間かかって歩いたと聞いた。雨の中だったがここの景色を見ながらの食事は疲れが和らいだそうだ。持統天皇は30回以上吉野へ行幸している。同じ眺めを見て心安らいだのかもしれない。

大峰連山を見る

聖地 吉野


余談

比曽寺
 大海人皇子は吉野の宮に入る前に,天智天皇に申し出た言葉通り,寺に入って修行したという説がある。もしそれが正しければ,当時,聖徳太子が建立したとされる比曽寺(ひそじ,現 世尊寺)が飛鳥からの道を吉野に入ったところにある。
 比曽寺には東塔・西塔があったが,江戸時代に東塔を滋賀県大津市にある三井寺に移築した。現在,塔のあったところに礎石だけが残っている。





比曽寺跡(奈良県大淀町)
10月20日

吉野着
 吉野川沿いに東に行けばすぐに離宮にたどり着く。大津から吉野までは約100qの道のり,馬を使ったとしても2日で着いているのは驚異的といえる。
 吉野に入った大海人皇子は,天智天皇に仏門に入る許可を得て宮を出ているので,吉野の比曽寺(世尊寺)に入ったという説がある。しかし,出家することは本意ではないので,母斉明天皇の離宮だった吉野宮に入ったのであろう。
吉野川
吉野川沿いの道を離宮まで進む
吉野宮  現在の吉野の中心部は金峯山寺をはじめとする吉野山一帯のように思われる。毎年桜の季節になると観光客であふれている。
 古代の吉野の中心地は宮滝遺跡のある一帯だった。ここに離宮が置かれていた。
 国道169号に面してかつての吉野宮跡があるが,橿原考古学研究所の調査の後に埋め戻されている。斉明天皇の宮殿や池の遺構がわかっており,この宮に重なって持統天皇の宮,これらに接して聖武天皇の宮跡も発見された。

吉野宮
吉野宮跡
余談

宮滝遺跡 
石碑
 吉野町には宮滝遺跡・吉野宮跡を示す石碑が3か所に建つ。吉野川沿いにある小学校の脇にもある。

大海人皇子が吉野にいるときに作った歌

「淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見」
宮滝遺跡
宮滝遺跡 石碑 (吉野町)
余談

勝手神社
 袖振山(そでふりやま)の前にある勝手神社で大海人皇子が琴を奏でていたとき,天女が現れて舞ったのを見て,勝利を予感したという話が伝わっている。
 また,1185年,源義経と別れた静御前が金銀を奪われて山中をさ迷っているところ捕らえられ,舞を舞わされたのがこの場所。
 2001年9月27日,本堂が全焼した。

消失後の勝手神社(山口神社)吉野
余談

桜木神社
 喜佐谷川沿いに建つ「桜木神社」。大海人皇子が吉野に身を隠していたある時,大友皇子の命によって兵に攻められたが,大きな桜の木に身を隠して難を逃れたと伝えられている。 桜木神社
桜木神社(吉野郡吉野町喜左谷)
余談

浄見原神社
 吉野町南国栖(くず)にある浄見原神社には大海人皇子にかかわる言い伝えが残っている。
 大海人皇子が吉野に逃れてきたとき,朝廷からの追っ手が来たため村人たちが皇子を隠した。この村人たちは神武天皇の時代以前からここで暮らす土着民たちだった。
 後に飛鳥で天武天皇が即位すると,国栖の人たちはお祝いに駆けつけ,舞を踊った。
 神社の前にある吉野町観光課の案内板には次のように記されている。
     国栖奏のこと
 「吉野は古く古事記・日本書紀の神代編にその名を現します。古代の吉野は今の吉野山を指していたのではなく,吉野川沿岸の地域をそう呼んでいました。
 古事記・日本書紀に書かれていることが,そのまま歴史的事実とは言えませんが,記紀に伝える模様を裏付けるように,縄文・弥生式の土器や,そのころの生活状態を推定させる狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。
 記紀には『神武天皇がこの辺りへさしかかると,尾のある人が岩を押し分けて出てきたので,おまえは誰かと尋ねると,今天津神の御子が来られると聞いたので,お迎えに参りました。と答えました。これが吉野の国栖の祖(おや)である』という記載があり,古い先住者の様子を伝えています。
 又,記紀の応神天皇(今から約1600年前)の条に,天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき,国栖の人々が来て一夜酒をつくり,歌舞を見せたのが今に伝わる国栖奏の始まりとされています。
 さらに,今から1300年ほど昔,天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が起こりました。世にいう壬申の乱で,天智天皇の弟の大海人皇子は,ここ吉野に兵を挙げ,天智天皇の皇子・大友皇子と対立しました。戦は約一ヶ月で終り,大海人皇子が勝って,天武天皇となりました。
 この大海人皇子が挙兵したとき,国栖の人は皇子に見方して敵の目から皇子をかくまい,また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて,国栖の翁よ,と呼ばれたので,この舞を翁舞と言うようになり,代々受け継がれて,毎年旧正月十四日に天武天皇を祀る,ここ浄見原神社で奉納され,奈良県無形文化財に指定されています。」

 これによると,大海人皇子は吉野で戦ったような印象を受けるが,日本書紀には吉野での戦いは記されていない。       

神社前から見る吉野川







浄見原神社
(奈良県吉野郡吉野町南国栖)
余談
県指定無形文化財
国栖奏
 国栖奏は毎年旧正月十四日,天武天皇を祭神とする浄見原神社(吉野町南国栖)で行われます。
 謡曲史跡保存会による案内が神社の前にある。
   謡曲『国栖』と国栖奏
 「謡曲『国栖』は,浄見原天皇が叛乱のために吉野の遷幸あそばされた時,老人夫婦が根芹と国栖魚を供御し奉り(国栖魚の占方),やがて追手の敵が襲って来ると,天皇を船にお隠しして(洲股の渡)御難をお救い申し上げた。そして,御慰めのために天女が現れて,楽を奏し(五節舞),蔵王権現が現れて御味方申し上げ,かくて世は太平になった,という曲である。記紀・応神記には,天皇吉野行幸の時,国栖人が醸酒と土毛(根芹)とを献じ,伽辞能舞(からのぶ)の歌舞を奏すとあり,是が国栖奏の始めである。国栖奏は十二人の翁による典雅な舞楽で,国栖人は壬申の乱平定に功績があったとして,天武天皇(浄見原天皇)の殊遇を賜り,大嘗祭に奉奏する外,毎年元旦には宮中に召されて歌舞を奏せしめられた。」 

吉野町観光課 掲示板

謡曲史跡保存会 掲示板
余談

金峯山寺
 金峯山寺は金峯山修験本宗の総本山であり,7世紀末,役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山に蔵王堂を建立したのが始まり。役行者は蔵王権現像を桜の木で彫ったので,この地と桜は深く関係があり,現在も保護されて吉野山が桜の名所となっている。
金峯山寺(きんぷせんじ)
12月3日

天智天皇没
 671年12月3日,以前より病気がちであった天智天皇は大津京で没する。46歳であった。亡くなるときの様子について詳細は不明。 陵は京都府山科にある。

 このときも大海人皇子は吉野にいた。平穏な生活をしていたのではと推測するが,この時を待っていたとも考えられる。

 そして,大海人皇子の中でくすぶっていた心に再び火がつく。。
天智天皇陵
天智天皇陵(京都山科)

大海人皇子動く
 
−吉野を出る前−
672年
5月中旬

大海人皇子
の決意
 672年5月,美濃に出かけていた大海人皇子舎人の一人(物部雄君(もののべのおきみ,別名 朴井雄君えのいのおきみ)が「先帝(天智天皇)の陵(みささぎ−墓)を造ると言いながら,美濃(岐阜県)や尾張(愛知県)の農民に武器を持たせている」と吉野へ報告に来た。物部雄君は出身地である美濃へ私用で行っていてこの情報を入手したため,急いで吉野へもどって報告した。また,大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,さらに,宇治橋で吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきた。そして,大友皇子の后となっていた十市皇女からも朝廷の動きを伝えてきた。いよいよ自分の身に危険が迫っており,決断の時と考え,吉野を出て戦うことを決意した。 吉野宮
吉野の宮模型 (吉野歴史資料館許可)
6月22日
舎人を美濃へ派遣
 大海人皇子は舎人3名(村国男依むらくにのおより−岐阜県各務原市出身,和珥部臣君手わにべのおみきみて−出身地不明,身毛君広むげつきみひろ−岐阜県可児市出身)を美濃国へ派遣した。目的は,
@美濃国安八麿郡(あはちまぐんの管理責任者に湯沐邑(ゆのむら)の兵を出し,
Aその兵によって近江と美濃の国境,不破の道をふさぐこと。
B東国(岐阜県,愛知県,長野県にまで至る)の兵を集めること
であった。
金生山
金生山(岐阜県大垣市)より養老山脈方向を見る
余談

書首根麻呂(ふみのおびとねまろ)
 村国男依の下で活躍した将軍の一人で,6月24日に大海人皇子と共に吉野を出た舎人の一人に書首根麻呂(ふみのおびとねまろ)がいる。この人の墓誌と骨容器が江戸時代に奈良県宇陀郡榛原町八滝(やたけ)の山中で発見され,国宝として東京国立博物館に保管されている。ここに墓があることについて,榛原町教育委員会は,この地の豪族を味方にしようと活躍した根麻呂がここを「忘れられない第二の古郷とした」からとしている。根麻呂は大阪出身の渡来系豪族文氏(あやうじ)の首長であった。 根麻呂
書首根麻呂の墓(奈良県宇陀郡榛原町八滝)
湯沐邑(ゆのむら)  美濃国安八麿郡(あはちまぐん)は現在の岐阜県安八郡・大垣市・揖斐郡を範囲とする広大な地域で,大海人皇子の私領地的な存在だった。当時,この私領地を「湯沐邑(ゆのむら)」と呼んでおり,大海人皇子のもとに米などを運んだ。この地と大海人皇子とは大変深い関係にあり,食糧ばかりでなく,常に皇子を支援する立場にあったと考える。 湯沐邑
湯沐邑(ゆのむら)中心地−金生山から東を見る
 余談
願成寺西墳之越古墳群
 願成寺西墳之越(がんしょうじにしつかのこし)古墳群(岐阜県揖斐郡池田町)

 池田山の東に位置し標高120mにある岐阜県最大の古墳群。これまでに111基もの円墳が確認されている。古墳の大半が6世紀末〜7世紀後半に築造された。
 横穴式の古墳の中からは,土器や勾玉,鉄製の刀などが出土している。
 この古墳のある一帯は現在茶畑として利用されており,それらを造る際にいくつかの古墳が壊された。そのため,石室が残っている古墳は4基と数少ない。また,古墳の葺き石だったと考えられる石が茶畑の石垣に転用されている。
 この古墳の存在から,大海人皇子との関係が深い人物がこの地を治めていたと思われる。
 




願成寺西墳之越古墳群
不破の道  日本書紀の記述では「不破の道を塞げ」とあることから,「壬申の乱」当時に「関」はなかったとされている。
 関ヶ原のこの地は,ここから東国へ出ていく重要な地点であったことから,防衛の必要がある場所で,当然そのための守りは必要だった。この地の役割は,畿内への侵入よりもむしろ,何かことが起こった場合に情報が東国へ流れていくことを遮断することにあったと考える。
 「関」の制度がいつから始まったのかが問題になるが,日本書紀に「鈴鹿関」が見られるので,「壬申の乱」当時には関が存在していた。
 旧中山道は当時は東山道とよばれていた。
関ヶ原
後に不破関がおかれた場所(関ヶ原)
6月24日午前

作戦開始
 大分君恵尺(おおきだのきみえさか)ら3人の舎人に飛鳥古京へ行かせ,「留守司(とどまりまもりのつかさ:都の守衛役)」をしていた高坂王(たかさかのおおきみ)に東国へ行くための駅鈴(えきれい:うまやのすず−馬の利用証)を求めさせた。高坂王はこれを拒んだ。

 大津にいる息子の高市皇子(19歳)と大津皇子(10歳)には,都を出て伊勢で父と合流するように,また,飛鳥の大伴氏に兵をあげるように使いを送った。
 大海人皇子の動きを知った大伴馬来田(まぐた)と吹負(ふけい)兄弟は,この時,病気なったと称して大津京から故郷の大和にもどっていた。
明日香
甘樫の丘から飛鳥寺方面を見る(明日香村)
余談

駅鈴
 役人が地方に行くには馬を利用した。主要な道には駅家(うまや)が置かれ,そこで馬を借り,次の駅家へと走ることになる。これを繰り返して都から離れた地方の目的地に向かう。駅鈴は駅家に着いた時に,自分が都からの役人であることを示すものでもあり地方へ行くために馬を利用することの許可証でもあった。利用できる駅馬・伝馬は駅鈴の剋数(刻み目)の数によって決められていた。
 日本で駅鈴が現存しているのは,隠岐の島にある「億岐(おき)家」に伝わる物だけ。島根県隠岐西郷町 の玉若酢命神社に隣接する億岐家宝物殿に2個伝わっている。
駅鈴
駅鈴(隠岐 西郷町)
島根県ホームページより転載(県承諾)


−吉野を出て美濃へ−

 地図表示ここをクリックすると地図を表示します。

6月24日

高市皇子
・大津皇子
脱出

 飛鳥古京の高坂王(たかさかのおおきみ)は駅鈴を出さなかった。そして,駅鈴を求めた舎人は吉野へ引き返し,それが得られなかったことや,高坂王が大海人皇子が吉野を出る動きをすぐさま大津京の大友皇子のもとに知らせに大津京へ走ったことを報告した。
 そのころ,大海人皇子の皇子たちは大津から脱出しており,父との合流地を目指した。高市皇子と大津皇子は別々に脱出しており,高市皇子は滋賀県草津市から甲賀を通り伊賀へぬける道を急いだ。(現在のJR草津線に沿ってまっすぐ鈴鹿へのびる道)
甲賀
大津から合流地点の鈴鹿を目指すルート(甲賀郡)
6月24日
大海人皇子
吉野脱出
 大海人皇子は草壁皇子(くさかべのみこ11歳),忍壁皇子(おさかべのみこ年齢不明だが幼少),鵜野讃良皇女(持統天皇)や20人ほどの舎人,そして侍女たち10数人を連れ吉野宮を歩いて出た。 吉野
吉野川を右に北東の宇陀の山中に向かった
吉野川  吉野川に沿ってしばらく行くと急な坂道に出る。これを過ぎれば津振川(津風呂川)に至る。馬では越えられない道。津振川に至って乗馬した。
(注 鵜は正しくは盧と鳥を合わせた字)

吉野川
津振川  津振川(つぶりがわ−現 津風呂川)は現在津風呂湖の湖底となっている。大海人皇子たちが通った当時の道も湖底に沈んだ。


津風呂湖
竜門岳  大海人皇子一行は山の中の細く険しい道を通る。見上げると標高904mの竜門岳が目に入ったであろう。
竜門岳
6月24日午後

宇陀吾城
 山の中の地,宇陀吾城(うだのあき)に着く。ここは阿紀神社があるあたりか。
 大和にいた大伴馬来田が舎人とともに追いついてきた。弟の大伴吹負は飛鳥に残って戦いの準備をしていると報告。
 宇陀の土地の管理者で土師連馬手(はじのむらじうまて)という人物が大海人皇子たちに食事を出した。 
阿紀神社
阿紀神社(奈良県宇陀郡大宇陀町迫間)

余談

「阿紀野の朝」
 阿紀神社の前に丘がある。ここは「かぎろいの丘」,万葉集の歌人,柿本人麻呂の歌で有名なところ。大海人皇子の孫にあたる軽皇子(文武天皇)とともに狩りに訪れ,夜が明ける様子を歌った。 

ひんがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
入浴券
温泉の入浴券で初めてこの絵を見て感動した。馬上は柿本人麻呂。「阿紀野の朝」の絵は壬申の乱で吉野を出る大海人皇子とも似ていると思った。この絵は大宇陀町役場で見ることができる。「あきのの湯」はたいへん落ち着いた雰囲気をもついい湯だ。

6月24日午後

甘羅邑
(かむらのむら)
 日本書紀では宇陀吾城で食事をした後,甘羅邑(=村 かむらのむら)を通って今の榛原(はいばら)町に向かったことになっている。甘羅邑の場所はわかっておらず,神楽岡(かむらおか)神社がある付近とする説がある。
 甘羅邑で大伴朴本連大国(おおとものえのもとむらじおおくに)を長とする狩人20人あまりが一行に加わる。大国は大海人皇子が出した舎人の一人書首根麻呂(ふみのおびとねまろ)の説得によって大海人側についたのかもしれない。
 美濃王(みののおおきみ)も一行に加わった。
神楽岡神社
神楽岡神社付近 (宇陀郡大宇陀町)
余談

額井岳
 宇陀吾城から次の宇陀の郡家までは宇田川沿いに田園が広がるのどかな地である。田舎の風景が残り,ゆったりとした気持ちになる。
 これから進む方向には大和富士ともよばれる標高816mの額井岳が見える。山の形をよく見ると「山」の字に見えてくる。

額井岳
余談

墨坂神社
 墨坂神社は宇陀川に面して建つ。
 「日本書紀によれば,崇神天皇の御代春三月(西暦380年)国中に疫病が蔓延したため,天皇はいたく悩まれた時,或夜御夢に神人が現れ「赤盾八枚,赤矛八竿をもって墨坂の神を祀れ・・・」とのお告げにより御勅祭されたところ,たちどころに疫病は,平癒し,もとの天平泰平となったと記されている。」(境内案内板より)
墨坂神社
墨坂神社(宇陀郡榛原町萩原字天神 )
6月24日
夕方近く

菟田郡家
(うだのこおりのみやけ)
 菟田郡家(=宇陀 うだのこおりのみやけ)は現在の榛原町。この近くを,伊勢からの米を運ぶ馬50頭が数十人の人たちによって連れられていたのに出会う。その荷を下ろさせ,歩いていた者を馬に乗せた。ここでさらに人数が増え,およそ100人の集団と化した。
 「郡(こおり)」は701年の「大宝律令」で変えられた字であり,壬申の乱が起こった7世紀末までは「評(こおり)」という字で書かれていた。日本書紀は8世紀に書かれたもので,「郡」と表記されている。「郡家(こおりのみやけ)」は「郡」の役所をさす。皇后もここから馬で進んだかは不明。
西峠
西峠交差点 菟田郡家は榛原町の現在住宅地になっているあたりか
6月24日夜

大野
 ここで日が暮れて暗くなった。ここはすでに山の中の道で幅も狭い。明かりなしで進むことは危険と判断し,民家の垣根をはぎとって火をつけ,それを明かりとして急いで進んだ。上り下りの激しい山道で川を渡ることもあったが,休まず先を急いだ。この狭い道でもし敵に挟まれたらここで終わってしまう。山を抜け広い場所に出た方が安心であったかもしれない。 大野付近
室生口大野付近
余談

深野
 宇陀(榛原)から大野の山を越えて名張へ向かう道には,現在の国道165号ではなく,大野の西にある山道を尾根づたいに宇陀郡室生村深野地区を通っていったとも考えられる。深野地区には伊勢に仕える斎王が通った道がある。ここを過ぎて国道165号に向かい,鹿高神社を左に見て宇陀川に出ると,白鹿の伝説がある安部田に到達する。 深野
奈良県宇陀郡室生村深野
余談

兵頭瀬
 壬申の乱の時,大海人皇子が宇陀川の水かさが増して渡れないので困っていると,白鹿が現れて皇子を背に乗せて渡ったという伝説がある。その地を兵頭瀬(ひよどせ)といい,三重県名張市安部田を流れる宇陀川にある。
 また,春日の神を祀った鹿高神社が近くにある。
兵頭瀬
兵頭瀬(三重県名張市安部田)
余談

鹿高神社
 壬申の乱で勝利した大海人皇子はこの鹿を忘れず,後に鹿高大神として祀ったとされる。
 境内に6世紀頃の古墳があり,名張地域の首長の墓と思われる。

鹿高神社祭礼(三重県名張市安部田)
余談

大野寺
 磨崖仏で有名な大野寺。寺の前を流れる宇陀川の対岸に磨崖仏がある。大野寺は681年創建。 大野寺
大野寺 磨崖仏
6月24日夜半

隠郡
(なばりのこおり)
隠駅家
(なばりのうまや)
 夜中に隠郡(なばりのこおり−三重県名張市)に着く。隠駅家(うまや−早馬がおかれた所・中継点)があり,これを焼き払った。村に向かって,「天皇が東国に入っていくから出てきなさい」と声をかけるがだれも出てきて従う者はいなかった。
 日本書紀はここで大海人皇子を「天皇」としている。「天皇」は大海人皇子をさし,ここで初めて「天皇」という称号を用いた。このことは,皇位は大海人皇子にあることを主張しているともいえる。
 いよいよ大海人皇子は伊賀の地へ入った。
名張市
名張市黒田・結馬(けちば)境界
6月24日夜半

横河
 横河は名張川と黒田川の合流するところ付近であったとされる。
 ここでにわかに空に黒雲が広がったのを見て,大海人皇子が道具を取り出して占ったところ,「天下が二つに分かれて争うが,最後は自分が勝利する。」と出たと言う。
 これより先は大友皇子と関係の深い伊賀の地(現三重県阿山郡大山田村−母の出身地)でもあり,ここを境として畿内から畿外へ出る,つまり,ここまでが畿内とされていた。従者たちの不安を取り除くためにも,また,疲れ切った体を精神力で支えさせるためにも,この一言は大きな意味を持った。
横河
名張大橋から名張川,宇陀川を見る
余談

美旗古墳群
 馬塚古墳は全長142m,美旗古墳群の中でも最大の前方後円墳。5世紀に造られた古墳で,この地を支配していた豪族の力が大きかったことがわかる。この子孫たちが「壬申の乱」にも関係しているであろう。 馬塚古墳
馬塚古墳(三重県名張市)
余談

城之越遺跡
 城之越と書いて「じょのこし」と読む。 古墳時代前期に造られた大溝が保存されている。大型掘立柱建物跡も発見されており,古代の庭園らしいが,むしろ大溝が重要で,古代の政(まつりごと)行った場である。今も地下からわき出している水に祈りを捧げたと考えられている。近くの伊賀市才良には全長120mの前方後円墳である石山古墳がある。 美旗古墳群のある地域からこの辺り一帯を力のある豪族が支配していたことがわかる。
城之越遺跡
(三重県伊賀市比土字城之越)
6月24日夜半

伊賀郡
(いがのこおり)
伊賀駅家
(いがのうまや)
  伊賀郡(いがのこおり)に至ってすぐに 伊賀駅家(いがのうまや)を焼き払っている。
 この場所も特定されていないが,上野市を流れる木津川沿いに「古郡(ふるごおり)」という地名があるが,この名からしても何か意味があるような気がしてくる。
 木津川をはさんで古郡地区の対岸に寺や古墳が残る。八王子塚も古代の古墳跡。
八王子塚跡
三重県上野市古郡(ふるごおり)地区付近
余談

大山田村
大友皇子の母の里
 大友皇子の母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこいらつめ)で,伊賀の豪族の娘だった。現在の三重県阿山郡大山田村は静かな山村。村内にはいくつもの古墳が残っており,この地方を支配していた豪族たちが中央と深くつながり,その力を保持していたとも考えられる。 大山田村
三重県阿山郡大山田村
余談

大山田村
鳴塚(なりづか)
 大山田村にある古墳の中でもこの鳴塚は全長37mの前方後円墳で,この位置から大山田村全体が見える。大友皇子の墓ともその母の伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこいらつめ)の墓ともいわれている。壬申の乱の後,宅子は大友皇子を弔うためにこの地に「鳳凰寺(ぼうじ−現在は薬師寺が建っている)」という寺を建てている。 鳴塚
鳴塚(なりづか)は宅子の墓とも伝えられている
6月25日深夜

伊賀の中山
 伊賀を北上し,中山を過ぎる。ここに伊賀国の郡司たちが大海人皇子と合流するため,数百の兵を率いて集結していた。事前に連絡が取れていて,これに従ったとみていい。吉野を出る前に大海人皇子は3名の舎人たちに指示をしているが,その活躍によるものか。
 この地も特定されていないが佐那具付近であろうと言われている。東に山を越えて大友皇子の母の出身地に至る。伊賀に味方が集結したとはいえ油断はできない。 
伊賀の中山
国道25号 佐那具町への道
余談

敢国神社
 佐那具は大和街道の宿場町だった。佐那具を過ぎて伊賀の山に入ったところに伊賀一の宮の敢国神社(あえくにじんじゃ)がある。 敢国神社
敢国神社(三重県上野市一の宮 )
余談

伊賀国分寺
 奈良時代(8世紀)に国家安泰を願って各地に国分寺や国分尼寺が建てられた。ここ伊賀の国にも建てられており,金堂・講堂・中門などや塔の跡が発見されている。 伊賀国分寺跡
伊賀国分寺跡(三重県上野市)
6月25日未明


た萩野
たらの
(「た」は現在使われていない文字)
 一行は伊賀の兵たちに守られながら進んできたが,小休止することとなった。ここで食事もしている。
 国道25号沿いに全長180mの御墓山古墳が見える。だれの墓かはわかっていないが,5世紀頃の三重県最大の前方後円墳らしい。この地に強大な力を持っていた支配者がいたと考えられるが,その子孫たちは大海人皇子に加勢したと考える。
御墓山古墳
御墓山古墳(三重県上野市佐那具町)
6月25日未明

積殖(つみえ)の山口
 交通の要所であった積殖(つむえ)の山口−三重県伊賀町柘植へ。
 伊賀と近江を結ぶ道はここ柘植で大和と東国を結ぶ道と合流する。
 高市皇子や舎人7人らは鹿深(甲賀)越えして,ここで父大海人皇子と合流する。
 7世紀の東海道は鹿深越え(水口から甲賀をぬけて柘植に出る)が一般的で,今の国道1号は10世紀に入ってから多く利用されるようになった。


−案内板説明−
積殖
山口
壬申の乱において,吉野で挙兵した大海人皇子は吉野からの兵力を集めながら伊賀国を縦断し伊勢美濃へと進軍した。その様子を日本書紀は「会明(あけぼの)にた萩野(たらの)に至る。暫く駕を停めて進食(みおし)す。積殖(つみえ)の山口に到りて,高市皇子鹿深山より越えて以て遇ふヘリ」と記している。「積殖の山口」の「積殖」とは古来から近江・伊勢の交通の要所であった伊賀町柘植町のことであり,「積殖の山口」とはこの地にあたるといわれている。
伊賀町教育委員会
積殖
積殖(つむえ)山口−伊賀町柘植
6月25日未明

大山(=加太(かぶと)越え
 伊賀と伊勢の国境,加太(かぶと)峠を越えて脱出成功となる。
 鈴鹿郡関町金場付近の国道25号線沿いに今でも「大和街道」が残っている。
 「大和街道」という名前は江戸時代の頃につけられたようで,以前は「大和道」と呼ばれていた。鈴鹿峠越えの道は奈良時代後に開かれたため,それまでは大和と東国がこの道でつながっていた。距離は短いが,梶ケ崎峠を越えるまで地道が残っている。大海人皇子もこの原型となる道を通ったと案内板(関町教育委員会設置)に書かれていた。
大和街道
大和街道
6月25日

鈴鹿郡家(すずかのこおりのみやけ)
 鈴鹿郡家(すずかのこおりのみやけ)で三宅連石床(みやけのむらじいわとこ)ら伊勢の国守らと多くの兵たちがが軍に加わった。
 鈴鹿関跡近く,鈴鹿川沿いに古厩(ふるまや)という地名がある。ここに鈴鹿駅家があったとされ,碑が建っている。鈴鹿郡家もこの近くにあったのかもしれない。
鈴鹿駅家跡
鈴鹿駅家跡(大井神社遺跡)鈴鹿市古厩
6月25日

鈴鹿の山道を塞ぐ
 500の兵で鈴鹿の道を抑えさせた。伊賀の中山や鈴鹿の郡家で出会った兵たちを鈴鹿の山深くまで進軍させ,朝廷の軍が東国に入ってくるのを防ぐ役割を持ったと考えられる。 鈴鹿道
旧街道の鈴鹿の道 これを進んで山越えの道となる
余談

国道1号
 現在の国道1号が「東海道」として整備されたのは後のこと。「壬申の乱」当時は道といっても細く険しかった。大和と東国をつなぐのはこの道ではなかったが,朝廷軍がこの道を通って東国へ入ることも考えられた。 国道1号
現在の国道1号(上り側)を滋賀県方面へ走る
余談
長者屋敷遺跡
伊勢国府跡
 ここはこと伊勢国府の跡だったらしい。鈴鹿市教育委員会の方の話では竹が茂った中に政庁跡を示す木柱が立っているとのこと。しかし,中へは入れそうもない。この茂みの前は鶏小屋と畑になっていたが,地面をよく見ると瓦片が至る所に露出している。その瓦の表面には布目の模様があり,この時代に造られた建物だったことを示す。「壬申の乱」との関係はよくわからないが,律令制以前の「壬申の乱」当時の伊勢国府跡だそうだ。 長者屋敷遺跡
長者屋敷遺跡(鈴鹿市広瀬町)
余談

伊勢国分寺跡
 伊勢国府跡及び伊勢国分寺跡は鈴鹿市国府町で見つかっている。近くに鈴鹿市考古博物館があり,それを取り囲むように多くの遺跡が発見された。 伊勢国分寺跡
伊勢国分寺跡(鈴鹿市国府町)
6月25日夕方

川曲の坂下
 夕方には川曲の坂下(かわわのさかもと)−鈴鹿市木田町に入った。
 鈴鹿から長い坂が続く道。皇后の鵜野皇女が疲れたので御輿を止めたとあるから,やはり,皇后は馬上ではなく御輿に乗っていたと考えるべきか。
 しかし,にわかに空が曇って雨が降り出しそうになってきた。仕方なく前進したが,雷鳴とともに雨が激しく降り始め,衣服も濡れて,夏なのに寒さで震える。
石薬師寺付近一里塚
国道1号 石薬師寺付近の一里塚
6月25日夜

三重郡家
 三重郡家−四日市市東坂部町に到着。ここで家一軒を焼いて体を温めた。体も疲れていたので夜明かしをした。
 美濃兵3000人がわざみ(わざみ−関ヶ原)を封鎖した。
 四日市市東坂部町に貝野遺跡・貝野古墳が団地内にある。案内板によると,7世紀後半から8世紀の集落跡とある。(古墳は調査していない)この付近に三重郡家があったことはまちがいない。(案内板設置 四日市市教育委員会)


 鈴鹿の関の司が使いを送ってきた。それによると,「山部王(やまべのおおきみ)・石川王(いしかわのおおきみ)らが服属するために来たので関に止めている。」と言う。そこで,路直益人(みちのあたいますひと)を使わした。
貝野遺跡
貝野遺跡・貝野古墳(三重県四日市市東坂部町)
余談

天武天皇御館旧跡
 四日市市西坂部に天武天皇の御館跡が2か所ある。現在は2つの大灯籠を残し,竹林となっているが,以前天武天皇を祭神とする尾前(おさき)神社があった場所には石碑が立ち,その案内に,「一軒の家を焼いて暖をとった。その地がここ御館(みたち)」としている。

 三重県四日市市史によると,伝承では大海人皇子が一夜を明かしたのは浄蓮寺という寺で,「御館旧跡」と書かれている。西坂部町にある浄蓮寺にはそれを示す石碑が建っている。戦いの後,大海人皇子たちは来たときと逆に同じ道を歩いて飛鳥に戻るが,その際宿泊したとも考えられる。

天武天皇御舘頓宮碑
(四日市市西坂部町)
浄蓮寺
浄蓮寺(四日市市西坂部町)
6月26日朝

迹太川ほとり

 朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とほがわ−朝明川と言われている)ほとり。

 四日市市大矢知町に,天武天皇遙拝所の碑が残る。ここで戦勝祈願のために伊勢神宮の方を向いて天照大神を拝んだという。朝明川が近くにはなくおかしいと思っていたら,四日市市史に江戸時代の絵図に米洗川を迹太川と記してあると書いてあった。しかし,米洗川は細く,実感がわかない。
 朝,太陽が昇るのを見て,それに向かっての戦勝を願ったと考えてもよい。
天武天皇遙拝所
天武天皇遙拝所と呪志の松(四日市市大矢知町)
6月26日朝

大津合流
 大海人皇子が戦勝祈願をしていると,25日夜に鈴鹿の関に行かせた路直益人(みちのあたいますひと)が「関にいたのは山部王や石川王ではなくて大津皇子でした。」と言って大津皇子を連れてもどってきた。大津皇子には「大分君恵尺」(おおいたのきみえさか),「難波吉士三綱」(なにわのきしみつな),「駒田勝忍人」(こまたのすぐりおしひと), 「山辺君安麻呂」(やまべのきみやすまろ),「小墾田猪手」(おはりだのいて),「泥部氏枳」(はずかしべのしき),「大分君稚臣」(おおいたのきみわかみ),「根連金身」(ねのむらじかねみ),「漆部友背」(ぬりべのともせ)らが共をしてきた。大海人皇子は大いに喜んだ。 米洗川
天照大神を拝んだとされる第2候補地 糠突山と米洗川
余談

迹太川ほとり
 「迹太川ほとり」には石碑が2か所に立ち,糠突山(ぬかづきやま)山頂の碑もその一つ

 伊勢神宮の方を向いて拝むのなら糠突山が適している。大海人皇子は馬でこの山を登ったと考えた.

 現在は頂上までの道が荒れ果てて簡単には登れないが,関西の古代史愛好家グループ(五月雨会)が挑戦した。(右2枚の写真を岡山県倉敷市の早崎さんより提供していただいた。) 

糠突山山頂に立つ天武天皇遙拝所の石碑

糠突山山頂から四日市市街・伊勢湾
余談

鈴鹿の山
 鈴鹿郡の余野公園に「壬申の古道」がある。これをまっすぐ進んで狭い山道を上ると鈴鹿の山々が見える。これを見たとき,甲賀を越えてきた大津皇子たちは,この「壬申の古道」を通り,山越えをして鈴鹿に入ったのではないかと考えた。鈴鹿の山は大海人皇子の兵によってすでにおさえられていたが,そこに山越えをして現れた者たちを見て最初は不審者と思われたに違いない。そのため,確認がすむまで鈴鹿関に止められていたのではないか。 鈴鹿の山々
鈴鹿の山々
6月26日

朝明郡家
 不破の道を封鎖したと各務原を本拠地としていた豪族,村国男依(むらくにのおより)から報告が入る。これで味方の兵によって鈴鹿の関と不破の道という交通の要所をおさえたことになる。
 19歳の高市皇子を最高司令官として不破に派遣した。
 高市皇子は本部をわざみ(わざみ−関ヶ原)に置くことを決める。
 大海人皇子は,東海道・東山道−尾張・三河・信濃方面の兵要請の勅令も出している。
縄生廃寺
縄生廃寺(三重県三重郡朝日町)
余談

朝明郡家
 2005年5月〜2006年2月,国道1号北勢バイパス建設工事に関わる調査が行われ,弥生時代の谷から多量の土器や掘立柱建物跡が発見された。政庁と考えられる大型建物跡も発見され,ここが朝明郡の中心地であったことはまちがいない。今後史跡公園として保存される計画がある。大海人皇子はここ朝明郡家で大津皇子と合流している。
久留倍遺跡(三重県四日市市大矢知町字久留倍)
6月26日

桑名郡家(くわなこおりのみやけ)
 この日,桑名郡家(くわなこおりのみやけ)に入る。伊賀・伊勢・美濃3国を制圧し,鈴鹿と不破を抑えて東国と近江朝廷を切り離します。 蛎塚新田
竹藪の中に桑名郡家があった(桑名市蛎塚新田)
余談

桑名郡家(くわなこおりのみやけ)
 鵜野讃良皇女や皇子たちは,乱が終わるまでの2ヶ月間桑名郡家(くわなこおりのみやけ)に残った。桑名市蛎塚新田にある懸(あがた)神社は持統天皇が祀ってあるが,このあたりに乱がおさまるまで居住していた桑名郡家があったのではないか。懸=直轄領を意味する。 縣神社
懸(あがた)神社 持統天皇が祀られている(桑名市蛎塚新田)
余談

桑名の豪族
 高塚山古墳を登ると桑名市街ばかりか伊勢湾や揖斐川が見下ろせる。ここに墓を造るということは相当に強い力を持っていた豪族がいたということになる。この豪族に大海人皇子は絶大なる信頼をもっていた。妻子が乱が終わるまでこの地にとどまったことがそれを示す。 黒塚山古墳
高塚山古墳(三重県桑名市)
決戦へ 決戦へ


飛鳥の扉  トップ 扉を開く 年表 飛鳥地図
渡来人 仏教伝来 聖徳太子 蘇我氏
大化改新 斉明天皇と道教 有間皇子の変 白村江の戦い
大津京 天皇と宮 酒船石と高取城石垣
「壬申の乱」の舞台を訪ねて 学習「壬申の乱」 竹取物語
飛鳥京 斎宮 藤原京 サイトマップ
飛鳥の石造物 飛鳥の四季 info・関連リンク集

古代史 日本武尊 日本の古墳 尾張地域の古代史

伝説 桃太郎伝説 浦島太郎伝説 徐福伝説 古代史の扉 トップ
海幸彦・山幸彦神話