番外編「大友皇子伝説」

愛知県岡崎市
千葉県君津市


大友皇子伝説

 672年7月23日、天智天皇の子大友皇子は壬申の乱で天皇の弟大海人皇子と争って敗れ、山前(やまさき)で自害ました。この地は特定されていませんが、当時の都があった大津からそんなに遠くないところだと思います。大友皇子の首は将軍村国連男依らによって大海人皇子のもとへ運ばれ、首実検されます。そして、後に自害峰と呼ばれる3本杉の下に埋められました。このことから自害峰が大友皇子の御陵候補地ともなりました。
 大友皇子の御陵候補地は茶臼山古墳(大津市秋葉台)や御霊神社(大津市鳥居川)を含めて大津市内にも3か所ありました。大友皇子が実際に即位したかは不明ですが、明治3年弘文天皇とおくり名され、最終的には明治10年に大津市御陵町にある園城寺境内の亀岡古墳が認定されて「弘文天皇長等山前陵」とされました。

 以上が通説となっていますが、興味深いことがわかりました。実は大友皇子
は自害しておらず、首実検されたものは身代わりとなった者の首で、蘇我赤兄や蘇我大飯らとともに愛知県あるいは千葉県まで逃げ延びたというのです。滋賀県大津を脱出してから愛知県や千葉県までの道は諸説あるようです。

 愛知県岡崎市までの道は途中伊勢神宮を経由しています。岡崎市には館跡が史蹟とされ、また、大津皇子が葬られたとされる塚(古墳)もあります。

 千葉県までは、一旦難波まで出て、船で上総国までたどり着いたというのです。千葉県君津市には大友皇子の伝説が残っていました。ここで宮(小川宮)を建てたのですが、後にその跡に田原神社(現在の白山神社)を建てました。
 千葉に逃れから、大海人皇子に知られるところとなり、大海人皇子は再び兵を送りました。大友皇子は対戦できる十分な兵を持っておらず、この地で自害します。大友皇子は火葬され白山神社の裏 山に埋葬されました。

 大友皇子とともに妃の十市皇女も上総に逃れました。しかし、妊娠中であった皇女は難産(死産)がもとで亡くなりました。 後に村人は皇女を弔うために筒森神社を建てたと伝えられています。
 
 1898年(明治31年)に白山神社の裏にある円墳の発掘調査が行われ、太刀、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)、勾玉(まがたま)などの三種の神器が発見されました。これらが大友皇子のものと決定するには十分な資料がありませんが、単に伝説にとどまらず、少しでも真実みがあることにおもしろさを感じます。



愛知県岡崎市の大友皇子伝説

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 岡崎市東大友町にある神明社に伝わること
大津を脱出した大友皇子は、「南海を巡り」て伊勢に立ち寄りました。ここで身の安全を願ったのでしょう。南海は千葉県君津市の伝説により、一旦難波まで出て、船で紀伊半島沿いに南下し、串本を回って志摩半島にたどり着いたと考えます。伊勢の参拝を済ませ、再び船で出航しました。そして、次に上陸したのが三河湾の碧海地域、現在の愛知県西尾市です。皇子たちは矢作川を遡って岡崎市に上陸します。上陸地の住人たちが皇子を温かく迎え、竹林の中に館を建てて住まわしたと言われています。そこを「丸藪」と呼んでいます。神社の東方にある公民館前には丸藪跡の石碑が建っています。
神明社(愛知県岡崎市東大友町字堀所36)
御祭神(天照皇大神、大友皇子、保食神、猿田彦神、建御名方神
 


 
 社記 由緒  神社の案内板より
「この東大友町は往古入海に沿ひたる処にして壬申の乱(西暦六七三年)大津の軍利あらず。時に大友皇子御舟にて南海を巡りひそかに伊勢の神宮に詣で御玉串を請け更に進んで三河国碧海湾に到り沿岸の地に駐り給ふ。村人相謀り王子の為に館を竹林の中に造りて皇子を住ましめ奉る。今に其処を丸藪と言へり。皇子祠を建て天照皇大神を祀る。当神明社これなり。かくて皇子の御遺跡たるを以って村人此の地を大友と称ふるに至る。後村人等祠を建て大友皇子を祀り大友神社と称す。然るに宝暦二年(一七五三年)五月矢作川氾濫し北野切の災に遭ひ。祠流失明治十二年(一八八〇年)九月再建す。当社は明治九年一月村社に列し明治四十一年十月七日無格社大友神社を合祀昭和十二年十二月八日境内社なる稲荷社。社口社。諏訪社の三社を合祀す。昭和二十八年七月十八日宗教法人となる。昭和三十四年九月の伊勢湾台風により大松が倒れ社殿が倒壊。氏子の献身的努力により昭和四十年十月二十一日立派に竣工し現在に至る。平成十三年十月八日 神明社社務所」
  「史蹟大友皇子丸藪之館跡」

神明社社記により建立されています
 
 
岡崎市西大友町の大友天神社に伝わること
 大友天神社(愛知県岡崎市西大友町字天神10)
御祭神(弘文天皇)(大友皇子)
「『大友皇子は自害した』と言いふらしてひそかに一族の者数名と三河にのがれ、大海人皇子の謀反を怨み悲憤の涙に暮れたがついにこの地で崩じ小針字神田に葬られた。従者長谷部信次が神社を創建し皇子の霊を祭祀したのが大友神社(大友天神社)である」とされています。(社記については「小針古墳と大友皇子(第三十九代弘文天皇)塚 」の案内板を参照しました 下に全文掲載)
 
住古 天智天皇の長子 大友皇子は壬申の乱に会い従者長谷部信次等と此の地に流偶し 草庵を結ぶ
皇子は「天性明悟にして雅より博古を愛ます」と懐風藻にあり
後に信次皇子の為に一祠を創建奉崇し 之を天神宮と称し その所在地を大友と云い 村落を長瀬村と呼ぶ 明治九年供進指定村社

従者長谷部信次は玉泉寺の由緒によれば「臣下長谷杢之允信次」と記載されています。


  近くに大仏山玉泉寺というお寺があります。
この寺は大友皇子が創建したと伝わっています。大友皇子は天智天皇作の三体の仏像とともに脱出をしました。


愛知県岡崎市西大友町寺山46
 
大友皇子の塚
小針古墳と大友皇子(第三十九代弘文天皇)塚 
小針1号古墳は昔から大友皇子の塚だと言い伝えられています。
愛知県岡崎市小針町神田43  三菱研修センター隣 三菱公園内
   
  案内板
 「このあたり一帯は往時大小14基の古墳があって壮観を呈していたが、明治以降開墾のため破壊され、この柵内の小高い円丘、俗称大塚のみが原型を保っている。もとは前方後円墳で、周囲には円筒埴輪が巡らされていたが、今は後円部のみが現存している。
 この古墳は往古から大友皇子の塚だという伝説がある。すなわち今を去る壱千参百年前の昔、天智天皇の崩御後、皇太子大友皇子が近江の大津宮で政治をとったが、天皇の弟大海人(おおあま)皇子(第四十代天武天皇)が吉野で挙兵し、近江を攻め、大津宮は兵火にあって焼け落ち、大友皇子は敗れて自害した。(西紀六七二年、御歳25才)。これを壬申の乱とよぶ。(日本書紀)。
 しかるに西大友町に鎮座する大友神社の「社志」によると
 「大友皇子は自害したといいふらして、ひそかに一族の者数名と三河にのがれ、大海人皇子の謀反を怨み悲憤に暮れたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田に葬られた。従者長谷部信次が神社を創建し皇子を祭祀した。これが大友神社である。大友という村名もこれに起因する」
という由緒がある。
 この塚は現在小針町字城跡一二三番地 市川金平氏の所有で、同家で先祖代々鄭重に守護し来っている。
なお大友皇子は明治三年に弘文天皇と贈り名され、御陵は大津市に建てられている。
    昭和四十六年十二月
           名古屋菱重興産株式会社 建之

千葉県君津市の大友皇子伝説

上総国の大友皇子伝説は小櫃川沿いの各神社に伝えられていました。川周辺には大鳥居、鳥居戸、大鷲や白鳥山などの古代太陽信仰や日本武尊と関係の深い地名や、鎌足や馬来田などの飛鳥時代の主要人物を思わせる地名が今も残っています。
 
 県道23号線の小櫃橋(君津市賀恵渕)から見た北側の小櫃川です。
小櫃川は千葉県木更津市、袖ヶ浦市、君津市、天津小湊町にまたがった川で、東の山間部から平野部を北上して西へと逆S字型に流れています。
 小櫃(おびつ)という地名は大友皇子の遺骸を納めた櫃(ひつぎ)に由来するとも言われています。

小櫃川(君津市賀恵渕)

 
 小櫃川の中流には、大友皇子伝説の中心地、小櫃地区があります。
 大友皇子の墓があることからその名がついたと言われる小櫃には、大友皇子が御祭神の白山神社があります。
白山神社の鳥居

神社の泉
 方墳丘向かって左下の泉です。参道の右手の手洗い場?の裏にありました。おそらく湧き水だと思います。前方後円墳は花瓶の形をしていると見ると、ちょうど花瓶の口から水が沸いてる格好になります。
 JR小櫃駅から久留里(くるり)街道(国道410号)沿いに南へ徒歩15分、白山神社は古墳時代前期の前方後円墳に寄り添うようにひっそりと鎮座していました。この前方後円墳の陪塚からは、海獣葡萄鏡や直刀等が出土しましたが、学術的には認められていません。また、その東北には小櫃台という地名があり、ここが大友皇子の墓だとする伝承もあります。

白山神社

拝殿

神社全体と古墳
 白山神社古墳の案内板
  この古墳の奥に大友皇子の墓があります。
白山神社古墳

 全長約88m、後円部の高さ約10mの前方後円墳で古墳時代前期に築造されたと考えられています。
 大友皇子が壬申の乱で敗れてここに逃れ、数年暮らした後に亡くなったとのは7世紀後半のことなので、築造年代から推測すると、この古墳は大友皇子のものとは考え難いとも言えます。



白山神社古墳 前方部          白山神社古墳 後円部
 前方部の斜面から撮影した白山神社拝殿です。画面右手が方墳丘です。
 

白山神社拝殿
 
君津市賀恵渕から西原方面
 小櫃川がゆったりと流れるこののどかな平野には、その他にも左大臣・蘇我赤兄の死田と呼ばれる暗い伝承の残る西原地区があります。


 白山神社から小櫃川をはさんだ対岸の山裾には、大友皇子の従者とされる七人士の墓(君津市戸崎)や、大友妃で鎌足の娘である耳面刀自娘の従者を祀る十二柱神社(木更津市下郡)があります。どちらも壬申の乱の最後の決戦が小櫃川であったことを伝えるものです。
 

十二柱神社鳥居
 十二柱神社拝殿

十二柱神社

 十二柱神社拝殿に神紋が描かれています。「十六葉八重裏菊」が上に、「五三の桐」が中央に、皇室の紋章「十六葉菊」も見えました。

 小櫃から久留里街道をさらに南へ進み、小櫃川の上流からさらに東へ国道465号線を進むと、大友皇子の正妃・十市皇女を祀る筒森神社(大多喜町筒森)があります。
  大海人皇子の第一皇女である十市皇女が、最後の決戦で敗れた後、この地へ逃れ、難産のために亡くなったという伝承はあまりにも残酷で悲しいものです。筒森神社は、山間の小さな集落に、そっとかくまわれているかのように、国道から南へ入った家々と畑の中に鎮座していました。 (注)

筒森神社(大多喜町筒森)        筒森神社と御獄山
 

熊野神社(木更津市大寺) 
 小櫃から久留里街道を北へと進み、国道409号線を西へ進んだ小櫃川の下流には、熊野神社(木更津市大寺)があります。大寺という地名が示す通り、かつてはそこに大規模な古代寺院があったと推測され、神社境内からは川原寺式様の瓦が出土したそうです。
 大友皇子が果たしてこの上総国に逃れてきたのかは定かではありません。しかし、確実なのは、小櫃川沿いの周辺地域は、そこを勢力圏としていた古代豪族の古墳群や寺社を大友皇子伝説と共に今も人々が信仰の対象として守っている−そんなのどかな地域であることでした。

注 奈良市高畑町に新薬師寺があります。鏡神社と接していますがこの入り口前に比売神社があります。この神社は1981年5月に「比売塚(ひめづか)」と呼ばれる小さい古墳の上に建てられたものです。十市皇女は678年4月14日に赤穂に葬られました。(日本書紀)この赤穂がどこかは不明ですが、奈良市高畑町の比売神社とする説が有力です。

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