飛鳥の石造物


 飛鳥といえば石舞台、そして不思議な石像。石像の多くは7世紀にペルシア人の職人らによって造られたものらしいです。ペルシア人が日本に来ていた?という疑問が生まれますが、彼らはシルクロードを通って唐と交流し、朝鮮半島を経由して日本に渡来人として入ってきていました。(奈良平城京跡から「波斯」:はし と書かれた木簡が出土していますが、これはペルシア人を意味します。)多くの石像は斉明天皇が道教思想に従って造らせた水を制御するためのモニュメントともいわれていますが、まだ明確な意味はわからないようです。でも、いろんな表情の石たちが飛鳥を訪れた人たちの心を和ませていることは確かです。一つ一つ個性のある石の造形物は、古代人の遊び心から生まれたものではないでしょうか。古の飛鳥の、石の匠たちが、後世の人々に送ったメッセージが聞こえてきそうです。「心の貧しい人々よ、もっと笑えよ、微笑めよ。体にも心にも遊びがあってこそ人は長く生きていけるぞ。」と・・・・。少し余裕ができたら、石のメッセージを聞きに飛鳥を訪れませんか。
 ここでは、石造物を中心に礎石や立石など飛鳥にあるいろんな石を集めてみました。
石舞台遺跡
石舞台
 蘇我馬子の墓と伝えられています。大小30個の花崗岩を積み上げて築かれた横穴式石室がむきだしになった方形墳です。天井に使われている石の総重量は約140tもあり、飛鳥のシンボル的な古墳となっています。石舞台がある一帯は島ノ庄と呼び、もともと蘇我氏の所有地でした。当時強大な権力を誇っていた蘇我馬子の庭園があり、そのため蘇我馬子の墓と伝えられているのです。古墳でありながら「石舞台」と呼ばれているのは、天井石を舞台にして狐が女に化けて舞を見せたという伝説があり、また、いつの時代かわかりませんが、旅芸人がこの石の上で舞を披露したという云われから名付けられているらしいです。
亀石(明日香村川原)
 4.5m×2.7m、高さ2m蛙の顔に似ていますがこの石像の名前は「亀石」です。南西を向いて置かれていますが、もし西の当麻(たいま)の方を向いたら、大和盆地は大洪水となり泥沼化すると伝えられています。どう見てもひとりで動くとは思えませんから大洪水となることはないという意味なのでしょう。立石(たていし)のように寺域を示す物かもしれないと言われていますが不明です。(右側写真はフィッシュアイレンズを使用して背面を撮影)亀石の背面遠くに多武峰があります。この時代の聖なる山です。そこに何か意味があるのかもしれません。
酒船石(明日香村岡)
 油を絞ったとか薬を作ったとか言われていますが、周辺から石樋や石造物が発見され、飛鳥京の庭園の一部ではないかという説が有力になってきました。もとはもっと大きな石で、側面に削った跡が残っていることから、18世紀に高取城の築城の際に使われたのではないかと言われています。長さは5.5m、幅2.3m、厚さ1m。右側の写真はフィッシュアイレンズを使用して西側から撮影しました。枕石が置かれ、水の流れを調節する役目があったらしいです。また、水を流し、そこに葉を浮かべてどこに流れるかで占ったのではという説もあります。
 
出水の酒船石((明日香村飛鳥資料館) レプリカ)
 長さ2.2m、幅1.7m、飛鳥の酒船石より西に600mの田んぼから2個の石が発見されましたが現在は京都の南禅寺近くの碧雲荘にあり非公開となっています。庭園を構成する導水施設の一部であったと考えられています。飛鳥に陽石が存在するから、これは陰石ではないかと想像しています。飛鳥京の地下には石造りの導水管が埋められており、水の流れを様々に導いていたと考えられています。水が地中を流れる部分と地表に出て石造りのモニュメントをいくつかつないで流していた部分があったのでしょう。これらの石造物をたくさん配置して水の流れを楽しんでいたとも考えられます。
車石((明日香村飛鳥資料館))
 荷車の轍(わだち)のような線が入っているので車石と呼ばれていますが、実は水を流す導水施設だったと思われます。明日香村の民家の庭にあった石をここに移設したと説明が書かれていました。彫られている溝はさほど深くないのですが、表面が削られたためで、もとはもう少し深かったようです。酒船石に近く、そこから導かれた水を流すものかもしれない。ただ、近年地中から発見された石造物は別にして、多くの石造物は戦国・江戸時代に元の場所から大きく移動しています。現在置かれている位置をもとにして石造物の意味を考えることはできません。
亀形石造物(明日香村 岡)
 2000年(平成12年)に酒船石遺跡付近で発見されました。地中にあったことから、もともとこにあったものと推測されます。長さ2.3m、幅約2mの亀形の石造物で、一定量の水がたまる深さ20pの円形の甲羅があります。甲羅にたまった水は尾から流れ出るようになっています。また、口の前に船形の貯水槽、その前に石積みの湧水施設があります。この発見によりここに斉明天皇の時代の両槻宮があったことが確定的となりました。水が左側の方形石槽から亀形石槽の頭の部分に流れ、尾から流れ出る仕組みになっています。明日香には渡来人が多く住んでいました。その知識や技術によって都造りが行われました。これらの水を流す施設づくりにも多くの渡来人がかかわったのではないでしょうか。以前ガイドらしい人が「これはレプリカ」と説明していたのを聞いたことがありますが、出土したままの本物です。これら石造物は多武峰から続く山の麓にあります。この場所にも何らかの意味があるのかもしれません。
両槻宮(ふたつきのみや)
 現在、酒船石のある丘一帯は斉明天皇の時代の両槻宮跡ではないかと言われていますが、日本書紀の記述に従えば、ここは石垣で囲まれていたようです。それを裏付けるように、宮跡を示すのがこれらの天理砂岩で作られた石のブロックです。これらの石は天理市にある平尾山付近に見られる石と同じとわかっているため、そこが産地です。天理市から飛鳥の都まで石を運ぶための運河が造られ、船に積んで運んだようです。
岡の立石
 岡寺の入り口付近にある細い登り道(わかりにくい)を5分ほど上ると出会う石です。立石は各寺の結界石とか宮の領域を示す石とも言われていますが、明日香村には他にもたくさんの立石があります。
石人像(明日香村飛鳥資料館)
 明治時代に石神遺跡から出土しました。杯を持って岩に座っている老人に、背面から老女の手が老人の袖にふれています。足裏から口まで細い穴が貫いており、噴水施設のように思われます。饗宴を催す際に使われたものと考えられています。写真左は出土したままの本物で資料館の展示室に置かれています。杯が欠けて、水の通り道が見えます。写真右はそのレプリカで、杯も復元されて資料館の庭に置かれています。
須弥山石:しゅみせんせき(明日香村飛鳥資料館)
 明治時代に石人像と同じ石神遺跡から出土しました。上段が須弥山、中段に山々、下段に波紋が彫られています。模様のつながりから、もう1個積み重ねた4段構成だったと考えられていますが4つめの石は発見されていません。資料館展示室に出土された3個が展示してあり、庭には4段が復元されて置かれています。
飛鳥苑池遺構出土 石造物
 1999年に発掘され、現在は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に展示されています。発見された場所から考えて、噴水施設であろうと考えられています。


山王権現

山王権現の背面(飛鳥資料館の復元像)


猿石(明日香村下平田)
 欽明天皇陵近くの吉備姫王(きびひめおう)の墓に4体置かれています。元禄時代の1702年10月5日に、欽明天皇陵前の水田から5体出土しました。1体は高取城に運ばれた猿石。朝鮮半島に似たものがあるとされるので、渡来人の伝えた技術で造ったもののようです。顔立ちから作者はペルシア人ではとも言われています。亀石を含むこれらの石造物は魔除けとしてもともと古墳の周りに置かれていたのではないでしょうか。単に境界を示すためのものではなく、守護神のような役目があったと想像しています。これらの石像は正面からしか見ることはできませんが、背面にも顔が彫られた石像があります。飛鳥資料館に復元された石像が置かれています。
猿石
 高取城の二の門近くにある石で、欽明天皇陵前の水田から5体出土したものの一つです。築城の際運び込まれたようです。古墳の石材として使っていたのではないかと思われる石を台にして置かれています。明日香村にある埋蔵文化財展示室(水落遺跡前)にあるのは複製で、本物はここ高取城への入り口にあります。
鬼の雪隠(せっちん)鬼の俎板(まないた) (明日香村野口)
 この2石はもともと1組のもので俎板の上に雪隠が乗る形となり、古墳の横穴式石室の石材であろうと考えられています。この近くには古墳が点在しており、特別な区域と考えられます。墳丘が崩れて石室が転がってしまったため、現在のような形になったのではないかとも言われています。
鬼の伝説がもとになって名前が付いたようですが、もちろん鬼が使っていたトイレやまな板ではありません。
弥勒石
 7世紀後半からの条里の境界を示す目印か、飛鳥川の堰に使われていたのではないかと言われている高さ2mぐらいの石です。地蔵のように顔が彫られているようにも見えますが、後の時代に彫ったのではとも言われています。村の人は「弥勒さん(弥勒菩薩)」として信仰しています。これも岡の立石などと同様、宮の境界を示すものではないかと考えられています。
人頭石(高取町観覚寺)
 高取町の光永寺にある高さ1mの顔の形をした石造物です。顔の左半分だけがあり、右半分は彫られていません。頭頂部は丸く彫られており、水を入れておくようにしたのかもしれません。目鼻立ちからペルシア人が造ったと考えられています。
益田の岩船(橿原市南妙法寺町)
 益田の岩船と呼ばれていますが石船ではありません。約10m×8mの長方形で高さは約6m、総重量約900t。表面に模様が見られ、上部の2つの方形穴を見ると古墳の石室を想像できます。牽牛子塚古墳の石室に似た形であることも気になります。何らかの理由(飛鳥資料館発行の図録によれば、「2つの穴をあける途中、低い節理面の亀裂が進んでいることが判明し放棄された」)で途中で制作を中止したのかもしれません。
 
豊浦寺文様石
 表面に模様のある石が豊浦寺にあります。豊浦寺は推古天皇の豊浦宮の跡に建てられました。この石の端を見ると割ったような跡があることから、もともとは大きな石だったと思われます。この寺の付近にある用水路にも模様のある石が発見されていますトンネルの中らしく見ることは容易ではありません。これらの石を組み合わせると何か意味のある形になるのかもしれません。飛鳥資料館にある須弥山石の模様に似てはいませんか。右は同じ豊浦寺の境内にあった石で、礎石と考えられています。他にもいくつかの礎石を見ることができます。
二面石(橘寺) 
 善と悪の両方の顔と言われています。寺の説明では、表と裏で人の心の善悪二業一心を表しており、人間の善悪両面を石に具現化した物とあります。
橘寺 三光石
 聖徳太子が勝鬘経を講じていると冠から日・月・星の光を放ちました。天皇は太子に命じて寺を建てさせたといいます。橘寺創建にかかわる石でもあります。
橘寺 礎石
 橘寺にあった五重の塔の礎石です。この模様が寺の名前の由来と言われています。
飛び石
 稲淵地区を東へ飛鳥川にかかる勧請橋渡りそのまま200mほど進むと左手に下りていく道が見つかります。飛鳥川に沿って西に戻るとこの飛び石があります。わかりにくい場合は勧請橋を渡らず、左の細い道を民家のある方へ進むといいでしょう。しばらく行くと「飛び石」の案内が見つかるのでその方へと進むと「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は ほえぬかも」と書かれた万葉歌碑と石橋があります。飛鳥時代に飛鳥川に橋はなかったようで、この飛び石が橋のかわりをしていたようです。水量が多いと渡れない沈下橋でもあります。
マラ石(祝戸)
 形が陽石に似ていますが立石の一つで、他と比べると小さいようにも思えます。石舞台古墳から稲渕に向かう細い道があり、途中稲淵宮跡の方へ曲がる道を少し行くと見つかります。
 
立部(たちべ)の立石
 左は定林寺跡にある小さな石です。形はよくわかりません。右は現在の定林寺境内にあるマラ石に似た石柱です。
上居(じょうご)の立石
 明日香村上居地区の道路際にあります。分かれ道を10m程登ると見つかります。特別な形ではなく、模様もない自然石が立っています。
豊浦の立石(甘樫坐神社)
 甘樫坐神社の境内に一際目立つ大きな石が立っています。この石の前で毎年4月に盟神探湯(くがたち)という神事が行われます。盟神探湯は古代の裁判と考えられており、煮えたぎる湯の入った釜の中に手を入れて、火傷をするかしないかで罪のあるなしを決めたようです。
飛鳥坐神社(明日香村大字飛鳥字神奈備)
 この神社はもとは神奈備と呼ばれたところにありましたが、829年(天長6)に鳥形山いう丘に遷されました。現在も所在地として「字神奈備」という地名を残しますが、古代の神奈備の場所ではないようです。祭神として事代主神、高皇産霊神、飛鳥三日比売神、大物主神が祀られています。五穀豊穣を祈願して置かれた陰陽石(女性・男性器形の石)が境内の至る所に見られ、子授けの神としても信仰されています。
龍福寺石塔
 稲淵地区に龍福寺があります。ここにある石塔は、原形を止めてはいませんが、もとは朝鮮式の五重の石塔(日本最古の銘文入り層塔)と思われます。台の部分には「天平勝宝三年(751年)」「竹野王」の文字が彫られている。この地域が渡来人と深く関わっていたことがわかります。
くつな石
 都塚古墳から阪田の集落を抜けて山に向かって細い道を歩きます。小さな案内板が見つかるとさらに山を登ったところに鳥居が立つ巨石が見えます。100m手前に由来書きがあり、それによると、「昔、この石を切り出そうと石屋がのみで「コーン」と一打ちすると、石の割れ目から赤い血が流れ出し傷ついたヘビが出て来たので石屋はびっくりして逃げ帰ったが、ひどい熱で、とうとう亡くなったそうな。村人はこれは神のたたりだと恐れ、それ以来神の宿る石として祀った。」とあります。
祝戸展望台
 古代、祝戸展望台のある山をミハ山と呼びました。ここは飛鳥の神奈備山ではないかと言われています。展望台は西と東にありますが、その分かれ道付近に大きな石が転がっています。もとは何かの形に組まれていたのではないかと想像できます。「磐座」を意味するのではないかという説もありますが不明です。
飛鳥寺
 飛鳥寺には金堂の礎石が3個並んでいます。藤原京以前の都の建物は掘立て柱式の建築方法であったのに対し、寺は石の上に柱が乗り、屋根には瓦が置かれました。
本薬師寺(もとやくしじ)
 平城遷都前に藤原京に薬師寺がありました。680年(天武9年)に天武天皇が皇后の病気平癒を祈って造営したのが薬師寺です。710年に薬師寺は現在ある地に移転しました。ここは本薬師寺とよばれ、金堂と塔の礎石が残っています。
奥山久米寺の礎石
 奥山久米寺は古代の文献に見られない寺で沿革は不明です。飛鳥資料館には礎石が置かれています。
山田寺回廊の礎石
 山田寺は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだいしかわまろ)が641年に建て始め、7世紀後半に完成した寺です。飛鳥資料館には発掘された東回廊の建物が展示されています。庭に礎石が置いてあります。
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