用明天皇の皇子です。592年,推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位しすると、甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ)が皇太子となりました。廐戸皇子は推古天皇の摂政となり、天皇中心の政治をめざし、遣隋使の派遣、冠位十二階や十七条憲法を制定しました。また,四天王寺・法隆寺などを建立するなど仏教を厚く信仰して政治を行いました。豊聡耳(とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)など別の呼び方もあります。(http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/shotokutaishi.htm) 62 images |
斉明天皇の時代、唐が高句麗に侵攻してきたとき百済を救援するために派遣されました。帰国すると日本に滞在していた百済の王子豊璋(ほうしょう)とともに将軍として百済に渡った。 11 images |
天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇 浄御原(きよみがはら)天皇 父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)の子で、大海人皇子として呼ばれていました。中大兄皇子(後の天智天皇)は同父母の兄にあたります。天智天皇の崩御後、672年に壬申の乱で大友皇子軍と戦い勝利しました。そして天武天皇として飛鳥浄御原宮で即位しました。天皇は皇親政治(こうしんせいじ)を行い、皇族を重職につけました。 42 images |
鏡王(かがみのおおきみ)の娘で万葉歌人。「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る 」 最初大海人皇子に嫁ぎ十市皇女を生みました。後に天智天皇の妻となったとされていますが諸説あります。 35 images |