大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)[1751~1828年]
大黒屋光太夫は伊勢国の若松村で生まれ、幼名は兵蔵と言います。伊勢国(三重県鈴鹿市白子)で廻船問屋の船頭として働いていました。1782年、光太夫32歳の冬、紀州藩の米を江戸まで運ぶことになり、鈴鹿の港から神昌丸に乗って出港しました。しかし、駿河湾で暴風雨に遭い漂流してしまいました。7か月漂流した後、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。ここで寒さに耐え4年間生活しロシア本国へと渡りました。漂流から10年が経ち、国王の許可が得られた光太夫らは日本に帰国しました。光太夫が10年間で見聞したことは当時の日本の蘭学に大きな影響を゜あたえました。