戦国時代

 室町時代の後期は日本各地で「群雄割拠」とよばれる武士による争いが起きました。領地を拡大した戦国大名はさらに勢力を広げるために戦いました。織田信長は滋賀県に安土城を築きカリスマ的な力を示していました。しかし、天下統一を実現することはできず、家来だった豊臣秀吉がその意志を引き継ぎ実権を握りました。秀吉の居城が京都伏見(桃山)にあったので、信長と秀吉の約30年間を安土桃山時代とよんでいます。戦国時代とは室町時代1467年の応仁の乱~安土桃山時代の大阪夏の陣まで、武士による戦乱の世をさしています。

明智光秀(あけちみつひで)[1528~1582年]

美濃(岐阜県)で生まれ、織田信長に仕えました。1582年の本能寺の変で織田信長を急襲し自害させましたが、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。

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浅井長政(あざいながまさ)[1545~1573年]

近江(滋賀県)の小谷城主で、織田信長の妹市と結婚しました。しかし、後に朝倉氏に味方し、姉川の合戦で負けて自害しました。

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茶々(ちゃちゃ)・初(はつ)・江(ごう)浅井三姉妹

浅井長政と信長の妹市との間に生まれた3姉妹です。長女茶々は豊臣秀吉の側室、次女初は京極高次の正室、三女江は佐治一成の妻となり、離縁してから豊臣秀勝、徳川秀忠の妻となりました。

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長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)[1539~1599年]

勢力争いが続いていた四国で領内の武士の力を高め一つに統一しました。家来たちは半農半兵で、平時は農民、戦が始まると武具を身につけ直ちにかけつけるという一領具足(いちりょうぐそく)を守らせていました。

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伊達政宗(だてまさむね)[1567~1636年]

出羽から陸奥一帯の戦国大名で、幼少期に病気になり右目の視力を失いました。そのため「独眼竜」と呼ばれました。関ヶ原の戦い以降は仙台藩初代藩主となり、領地の開発に力を入れました。

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土田御前(どたごぜん)[生年不不明~1594年]

織田信秀の妻(正室ではない)で織田信長の母です。

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蒲生氏郷(がもううじさと)[1556~1595年]

滋賀県で生まれ幼名は鶴千代です。滋賀県東部一帯に勢力のあった六角氏の重臣蒲生氏の三男で、13歳の時織田信長の人質となりました。翌年伊勢大河内城の戦いで手柄を立て、信長は大いにほめて娘と結婚させました。郷里に戻ると、信長の政治力を目の当たりにしながら暮らしていたことが郷里の日野の城下町づくりに大いに役立ち、日野は発展していきました。本能寺の変のあと秀吉側につくことを決め、敵対勢力を打ち破っていきました。その功績により伊勢松が島城主となり、さらに陸奥黒川城(会津城)主となりました。また、氏郷はキリシタン大名でした。

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蜂須賀小六(はちすかころく)・彦右衛門(ひこえもん)・正勝(まさかつ)[1526~1586年]

愛知県あま市にあった蜂須賀城で生まれました。初め斎藤道三に仕え、後に織田家の家臣となります。このころ羽柴秀吉と出会い、秀吉は蜂須賀小六の家来となって働きます。そして、秀吉が信長の家来となって出世すると、秀吉に仕えて墨俣一夜城の築城など、続く戦いでも多くの手柄を立てていきます。小六と秀吉の矢作川での出会いは後世の創作のようです。

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長谷川等伯(はせがわとうはく)[1539~1610年]

石川県七尾で生まれた安土桃山時代の画家です。代表作の「松林図屏風」は国宝となっている屏風画です。

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本多忠勝(ほんだただかつ)本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろう ただかつ)[1548 ~ 1610年]

徳川家康の家臣で猛将、大きな鹿の角が特徴的な鹿角脇立兜をかぶって戦った槍の名手です。

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堀尾金助(ほりおきんすけ)と母[1573~1590年]

木下藤吉郎が小田原征伐を行う際に、18歳だった金助は病の父に代わって叔父とともに戦に出かけました。しかし、、戦半ばで病死してしまいます。出陣の時、母が名古屋市の熱田区にあった裁断橋まで見送っていますが、子の供養にと壊れかけていた橋を修復しました。

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細川忠興(ほそかわただおき)[1563~1646年]

足利将軍の家臣細川幽斎(藤孝)の長男として京都で生まれました。父とともに織田氏の家臣となり、織田信長の勧めで16歳の時明智光秀の三女玉と結婚しました。本能寺の変が起こると玉を丹後国に幽閉しましたが、豊臣秀吉の政権下で丹後宮津城主となり、玉を大阪の屋敷に移しました。秀吉の没後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍として参戦しました。

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北条早雲(ほうじょうそううん)・伊勢盛時(いせもりとき)・伊勢宗瑞(いせそうずい)[1432~1519年]

戦国時代初期、戦国大名の始まりとなったようなの武将です。秀吉よりも先に検地を実施し領国支配をしっかり行いました。

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織田信長の妹・市(いち)[1547~1583年]

お市の方(おいちのかた)は織田信長の妹で浅井長政に嫁ぎましたが、浅井氏が朝倉氏に味方したため信長に攻め滅ぼされました。羽柴秀吉によって娘3人とともに小谷城から助け出され、後に柴田勝家の後妻となりました。秀吉と勝家が対立し、越前北ノ庄城で自害しました。

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井伊直政(いいなおまさ)[1561~1602年]

徳川家の家臣で小牧長久手の戦いなどで活躍しました。「井伊の赤備え」とよばれるほど勢いがありました。後に彦根藩の初代藩主となりました。直正を育てたのは平成29年のNHK大河ドラマの主人公となった井伊直虎(女城主)です。

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今川義元(いまがわよしもと)[1519~1560年]

駿河・遠江・三河を制圧し強大な力を有していた戦国大名です。しかし、3万の兵とともに京都に向かう途中だった桶狭間で織田信長に攻められ滅びました。

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石田三成(いしだみつなり)[1560~1600年]

豊臣秀吉に仕えた武将で、秀吉の後、秀頼を支えました。1600年の関ヶ原の戦いで西軍を指揮して徳川家康と戦いましたが敗れ斬首されました。

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加藤清正(かとうきよまさ)[1562~1611年]

豊臣秀吉の家臣で1583年の賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳の七本槍」といわれるほど活躍しました。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、熊本藩主となりました。

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加藤嘉明(かとう よしあき・よしあきら)[1563~1631年]

豊臣秀吉に仕えた武将の一人で、1583年の賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳の七本槍」といわれるほど活躍しました。秀吉の後は徳川家康に味方し、松山藩、会津藩の領主となりました。

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山内一豊の妻・見性院(けんしょういん)まつ・千代[1557~1617年]

千代は山内一豊を内助の功 で支えた妻として、夫のために名馬を買った話が伝わっています。

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吉川経家(きっかわつねいえ)[1547~1581年]

中国地方の武将で、羽柴秀吉による中国攻めの際、鳥取城にこもって徹底抗戦しました。しかし、食料が尽きて降伏し、自害しました。

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豊臣秀吉の正室・高台院(こうだいいん)・ねね[1547or1548~1624年]

豊臣秀吉の正室です。「おね」「ねね」などと呼ばれ、木下藤吉郎のころより夫を支えました。秀吉が天下を治めてからは「北の政所」とよばれ家臣から慕われていました。秀吉の死後、京都東山 に高台寺を建立し弔いました。

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前田利家(まえだ としいえ)[1539~1599年]

古屋市中川区荒子町で生まれ、幼名は犬千代と言います。はじめ織田信長の家来として働き、後の豊臣政権下では五大老の一人となりました。加賀藩初代藩主として領内の開発を進めました。

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高山右近(たかやまうこん)[1552~1615年]

織田信長に仕え、後に豊臣秀吉に使えました。高槻城主でキリシタン大名です。禁教令で追放されると前田利家に仕えました。その後国外に追放となりマニラで没したと言われています。

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前田利長(まえだとしなが)[1562~1614年]

 前田利家の長男として尾張の荒子城(愛知県名古屋市)で生まれました。幼名は犬千代です。父利家とともに羽柴秀吉につき従い、柴田勝家と戦いました。豊臣秀吉に仕え、利家から家督を譲られると五大老の一人として石川・富山を治めました。後に徳川家康につき、関ヶ原の戦いの後に加賀藩の初代藩主となりました。

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前田利家の妻 まつ 芳春院(ほうしゅんいん)[1547~1617年]

前田利家の正室で才女と言われています。秀吉や家臣たちからの信頼も厚く、秀頼の乳母となりました。

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毛受勝助家照(めんじょう しょうすけいえてる)毛受勝照(めんじゅうかつてる)[1558~1583年]

愛知県尾張旭市で生まれました。柴田勝家に仕える武将で荘助と名のっていましたが、長島一向一揆の戦いで手柄を立て、勝家の勝を名につけるよう言われ勝助と変えました。賤ヶ岳の戦いでは主君柴田勝家を北ノ庄城に退却できるよう秀吉軍に兄の茂左衛門とともに勝家の旗印を掲げ突撃し二人とも討ち死にしました。

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水野勝成(みずのかつなり)[1564~1651年]

1615年大坂夏の陣で大活躍したのがきっかけとなり大和郡山を治めることとなりました。その後備後国福山に配置転換となりますが、西国や九州の外様大名をおさえるためであったと考えられます。領内の整備に努め、福山城を築きました。

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最上義光(もがみよしあき)[1546~1614年]

伊達正宗の叔父にあたり、山形藩の初代藩主です。豊臣秀吉に対しては秀次謀反で娘が犠牲となっていたため敵対心を抱いており、このことから上杉景勝とも対立しました。関ヶ原の戦いでは東軍につき戦いました。

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母里友信(もりとものぶ)・母里太兵衛(もりたへえ)・母里多兵衛(もりたひょうえ)・黒田節[1556~1615年]

「黒田二十四騎」の一人として豊臣秀吉の軍師でもあった黒田官兵衛や福岡藩の初代藩主黒田長政に仕えた槍の名手です。

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毛利元就(もうりもとなり)[1497~1571年]

幼名は松寿丸、安芸広島の一城主でしたが、隣国を攻め領地を拡大していき、中国地方全域を治めるようになった戦国大名です。「3本の矢の教え」は隆元、元春、隆景の3人の子に一族で争わず団結することの大切さを説いた教訓として語られています。

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毛利輝元(もうりてるもと)[1553~1625年]

幼名は幸鶴丸、中国地方で力のあった祖父の元就の後を継ぎ、さらに勢力を拡大していきました。織田信長とは対立していましたが、豊臣政権下では重臣として活躍しました。関ヶ原の戦いでは西軍の大将となりますが実際には戦わず、家臣の働きもあり、徳川政権下でも萩に城を築いて大名として存続しました。

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村上水軍・村上景親(むらかみかげちか)[1558~1610年]

小早川氏や毛利氏に仕えた武将で豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦しました。関ヶ原の戦いでは毛利軍として参戦しています。

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村上水軍・村上武吉(むらかみたけよし)[1533~1604年]

海賊として恐れられた村上水軍を率いた頭領です。

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南蛮人

安土桃山時代、日本に貿易やキリスト教伝来のため南方を経由して来日したポルトガル人やスペイン人などを南蛮人と呼びます。また、これらの国との貿易を南蛮貿易といいます。南蛮船は平戸や長崎に入港しており、堺の商人たちは直接出向いて中国の絹や生糸、ヨーロッパや東南アジアの品々を購入し商売しました。

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直江兼続(なおえかねつぐ)[1560~1619年]

上杉謙信、上杉景勝に仕えた武将で、知略にすぐれた名将です。景勝には長きにわたり仕え、米沢に藩の学問所となる禅林文庫を設けました。

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丹羽氏重(にわうじしげ)[1569~1584年]

現在の日進市に生まれ、織田信長に仕えました。後に徳川家康の家臣となりました。

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織田信長正室・濃姫(のうひめ)帰蝶(きちょう)[1535~1556年]

斎藤道三の娘で織田信長の正室となりました。帰蝶(きちょう)、鷺山(さぎやま)殿 と呼ばれていたとも。

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於大の方(おだいのかた) 徳川家康の母 伝通院[1528~1602年]

愛知県知多郡東浦町の緒川城で生まれました。三河の松平広忠のもとに嫁ぎ竹千代を出産しました。その後、於大の実兄が織田氏とつながると、今川氏との関係を重視した広忠は於大と離縁し、実家のある刈谷城(現在の愛知県刈谷市)にもどり、城内の椎の木屋敷に住みました。桶狭間の戦いで今川氏が敗れると、松平氏は織田氏と関係を持ち、これにより家康は母於大を再び城に迎え入れました。松平氏から離縁された後の於大は坂部城主(阿久比町)の久松俊勝と再婚しています。俊勝が亡くなると菩提を弔うため安楽寺にて伝通院と号しました。

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織田信秀(おだのぶひで)[1510~1551年] 土田御前

愛知県清洲城主で織田信長の父です。

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織田信長(おだのぶなが)[1534~1582年]

桶狭間の戦いの後名が全国に知れ渡るようになりました。天下統一を目指し全国の大名たちを支配していきますが、本能寺の変で家臣だった明智光秀の謀反により自害しました。

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六角定頼(ろっかくさだより)[1495~1552年]

滋賀県湖東地域を治めていた武将です。領内の経済発展に努め、観音寺城下に商人を集め楽市を行いました。これは後に織田信長の楽市楽座のもととなっています。

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佐治一成(さじかずなり)[1569~1634年]

母は織田信長の妹であり市の姉の犬です。織田家の家臣で尾張大野城主でした。最初の妻は信長の妹市の子で江(ごう)で江が11歳の時の政略結婚でした。

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真田信繁(さなだのぶしげ)・真田幸村(さなだゆきむら)[1567~1615年]

真田昌幸の二男で源二郎と呼ばれていました。真田幸村(さなだ ゆきむら)の方が広く知られた名前ですが、当時、この名前はどの書状からも見つからず「信繁」が正しいとされています。豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦い後は大坂冬の陣や夏の陣で徳川家康軍と戦いました。

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千姫(せんひめ)・天樹院[1597~1666年]

徳川秀忠と信長の妹市の子の江(ごう)との間の長女で、豊臣秀頼に嫁ぎましたが、大阪夏の陣で豊臣方が滅んだ後は本多忠刻と結婚しました。しかし、不幸が続き、出家して天樹院となりました。

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千利休(せんのりきゅう)[1522~1591年]

千宗易 (せんのそうえき)とも呼ばれた茶人です。織田信長や豊臣秀吉に仕え、政治に意見を言うこともありました。

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柴田勝家(しばたかついえ)[1522~1583年]

織田信長の家臣で、勇猛果敢な戦いぶりが有名です。本能寺の変後、羽柴秀吉と戦い自害させました。

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武将 賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦いは、1583年、滋賀県長浜市にある賤ヶ岳~余呉湖周辺で行われた羽柴秀吉と柴田勝家との戦いです。織田家家臣が真っ二つに分かれて戦いましたが、羽柴秀吉軍の勝利となりました。この戦いで功績のあった福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元ら7人は賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)と呼ばれるようになりました。賤ヶ岳山頂の武将の像は秀吉方の武将で、戦で疲れ切って座り込んでいる姿を現していますが、特定の人物名は書かれていません。

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鈴木重成(すずきしげなり)[1588~1653年]

愛知県豊田市iで生まれました。徳川家康と子の秀忠に仕え関ヶ原の戦いや大坂の陣にも参戦しました。その後、島原の乱で功績をあげ天草の代官となりました。天草では領内の諸改革に勤めました。踏み絵を実施した際は兄の鈴木正三に仏教の説法を依頼し、キリシタンとなっていた民衆にキリスト教からの改宗を勧めました。

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鈴木正三(すずきしょうさん)[1579~1655年]

愛知県豊田市iで生まれました。徳川家康と子の秀忠に仕え関ヶ原の戦いや大坂の陣にも参戦しました。若いころから仏教を学び、42歳の時に秀忠の温情もあり出家しました。布教に勤めていたとき、弟の重成が役人として働いていた天草に布教に出かけ「破切支丹」を執筆してキリスト教を批判しました。

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武田信玄(たけだしんげん)[1521~1573年]

甲斐(山梨県)から信濃(長野県)一帯を治めていた戦国大名です。騎馬軍団を率い強大な力で領地の拡大を進めていましたが、三方ヶ原の戦いから甲斐に戻る途中で亡くなりました。

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竹中半兵衛(たけなかはんべえ )[1544~1579]

美濃斉藤氏に仕えていた武将ですが、後に織田信長に仕えるようになりました。羽柴秀吉の出世により秀吉に仕えることとなり、軍師として戦場で活躍した。

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武野紹鴎・武野紹鷗(たけのじょうおう)[1502~1555年]

堺の商人で茶の湯を極めました。千利休は弟子の一人です。

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細川ガラシャ・明智玉(珠)(ほそかわがらしゃ・あけちたま)[1563~1600年]

明智光秀の三女として福井県福井市東大味町で生まれました。織田信長の勧めにより16歳で同い年の細川忠興に嫁ぎましたが、父光秀が本能寺の変により逆臣となると、その娘玉は現在の京都府京丹後市に幽閉され、その後豊臣秀吉が実権を握ると大阪に移されました。ここでキリスト教と出会い、玉の心の支えとなっていきました。そして、禅宗からキリスト教に改宗をし、ガラシャという洗礼名を授けられました。関ヶ原の戦いの際、大阪の屋敷を石田三成の軍に囲まれ、ここで命を絶ちました。

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田中吉政(たなかよしまさ)[1548~1609年]

滋賀県出身の吉政は近江八幡城で豊臣秀吉の甥の豊臣秀次の家老となりました。秀吉は北条氏を滅ぼすと大名の配置替えを行い、秀次は尾張に入り、吉政は岡崎城主となりました。領民から慕われた城主として語られています。この後筑後の城主となります。

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種子島時尭(たねがしまときたか)[1528~1579年]

1543年8月、種子島にポルトガル船が漂着しました。その際、ポルトガル人より鉄砲2丁を譲り受け、家臣に鉄砲の製法技術を学ばせました。これは初めて日本に鉄砲が伝来したとされることです。

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天海僧正(てんかいそうじょう)[1536~1643年]

徳川家康、徳川家光に仕え、徳川政権に関わった天台宗の高僧です。徳川家の菩提寺となっている上野の寛永寺の初代住職です。生い立ちがはっきりしないため、、明智光秀と同一人物か近親者とする説もあります。

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徳川家康(とくがわいえやす)・松平元康(まつだいらもとやす)[1542~1616年]

愛知県岡崎で生まれ、幼名は竹千代といいます。元信、元康と名乗っていたこともありました。織田氏や今川氏の人質となって三河の外で少年期を過ごしました。豊臣政権下の五大老の筆頭となり、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成を破って天下を統一し、1603年には征夷大将軍となって江戸に幕府を開きました。

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藤堂高虎(とうどう たかとら)[1556~1630年]

滋賀県甲良町に生まれ、幼名を与吉といいます。関ヶ原の戦いでは徳川について参戦しました。江戸城改築や宇和島城、今治城、津城ほか城建築の名人です。石垣を高く積んだ堅固な城を築くことが特徴です。

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豊臣秀次(とよとみひでつぐ)羽柴秀次(はしばひでつぐ)[1568~1595年]

豊臣秀吉の姉 とも(瑞竜院日秀)の子として愛知県名古屋市大高で生まれました。本能寺の変後、秀吉の重臣として戦い、大阪府貝塚市の千石堀城の戦いで功績をあげ、滋賀県近江八幡市にある八幡山城(はちまんやまじょう)主となりました。ここでは農民の訴えにも耳を傾けたり、琵琶湖の水運を利用するための八幡堀を整備したりするなど領内の発展に尽くしました。2代目関白となった秀次は京都府京都市上京区にあった聚楽第(じゅらくだい)に移り政治を行いましたが、秀吉に言われるままでした。秀吉に秀頼が生まれると、秀次の精神状態もだんだん不安定になり、奇行も語られるようになりました。秀吉は秀次に謀反ありとし、高野山で自害しました。

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豊臣秀吉(とよとみひでよし)[1536~1598年]

名古屋市中村区で足軽の子として生まれ、幼名は「日吉丸」と言われますがはっきりしません。木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗り織田信長に仕えるようになりました。知恵と行動力により頭角を現し、やがて信長の信頼を得て長浜城主にまでなります。信長没後は諸大名をおさえ、大阪に城を築き天下を統一していきました。「太閤秀吉」とも呼ばれます。

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鶴姫(つるひめ)・大祝鶴(おおほうりつる)[1526~1543年]

瀬戸内海の大三島の生まれで、大祝鶴(おおほうり つる)が名前です。大山祇神社で宮司をしていた娘ですが、体格もよく男勝りだったため、幼い頃から武術を学びました。戦が始まると甲冑を身につけて戦ったと言われています。

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上杉景勝(うえすぎかげかつ)[1556~1623年]

幼名は卯松で叔父の上杉謙信の養子となりました。武田氏と手を結び、御館の乱で謙信の別の養子となっていた上杉景虎を破って実権を握りました。秀吉政権下では五大老の一人として活躍し、会津藩を治めました。関ヶ原の戦いで家康に敗れると米沢に移り、初代藩主となりました。

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上杉謙信(うえすぎけんしん)[1530~1578年]

「毘」を旗印とした毘沙門天の化身とも言われた越後(新潟)地方の戦国大名です。信濃の武田信玄と川中島を挟んで戦いました。

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山内一豊(やまうちかずとよ)[1546~1605年]

織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川に味方して活躍しました。長宗我部氏のあとの高知城主となり領国の発展に力を入れました。

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豊臣秀頼(とよとみひでより)[1593~1615年]

豊臣秀吉と浅井長政の娘茶々(淀殿)との子で、秀吉が57歳のときに大阪で生まれました。徳川秀忠の娘千姫を妻としています。
前田利家が守り役となり、幼い頃から豊臣家の世継ぎとして育てられました。また徳川家康や毛利輝元らの大名に血判の誓書を出させて豊臣家に忠誠を誓わせましたが、秀吉の死後は徳川家康の力が増し、関ヶ原の戦いで西軍が大敗すると秀頼は一大名に落ちてしまいました。これを不満とする武士らが蜂起して大坂冬の陣が起こり、その後に起きた大坂の夏の陣で大坂城が落城、秀頼は母淀とともに自刃しました。これにより豊臣氏は滅亡しました。

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結城秀康(ゆうきひでやす)[1574~1607年]

徳川家康の次男として浜松で生まれました。豊臣氏の養子となり羽柴秀康と名乗り、その後結城氏の養子となって結城秀康や秀朝と名乗っています。関ヶ原の戦いでの功績が認められ。越前北ノ庄藩の初代藩主となっています。

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フランシスコ=ザビエル(ふらんしすこ=ざびえる)[1506~1552年]

スペインで生まれた宣教師で、カトリック教会の組織であるイエズス会を創設しました。1549年にキリスト教を布教するため日本の鹿児島に初上陸しました。

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武田勝頼(たけだかつより)[1546~1582年]

別名「諏訪勝頼」ともいいます。武田信玄の四男として生まれました。信玄後の甲斐国の戦国大名です。織田信長と長篠で戦って敗れました。

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伊東マンショ・伊東満所(いとうまんしょ)[1569?~1612年]

現在の宮崎県西都市で生まれました。天正8年に洗礼を受け「マンショ」となりました。1582年、天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)団(天正少年使節)の一員で、キリシタン大名の名代として、千々石(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノとともにヨーロッパに派遣されました。ローマ教皇に謁見しました。帰国後は九州のキリスト教の布教に努めました。

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福島正則( ふくしままさのり) [1561~1624年]

現在の愛知県あま市で生まれました。幼少より小姓として羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えていました。柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いでは加藤清正らとともに「賤ケ岳の七本槍」と呼ばれました。その後清洲24万石を領有し、朝鮮出兵でも活躍しました。秀吉の死後は徳川家康につき、関ヶ原の戦いでは東軍として戦功をあげました。広島(安芸、備後)を治めることとなりましたが、広島城修築で問題が起こり所領を没収されました。

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大友宗麟(おおともそうりん)大友義鎮(おおともよししげ)[1530~1587]

豊後、現在の大分県の戦国大名。キリシタン大名としても知られています。大友義鑑(おおともよしあき)の子として生まれました。第21代当主となると九州北部や熊本まで支配を拡大していきました。南蛮の文化にも強い関心を持ち、フランシスコザビエルとの出会いをきっかけにキリスト教の信者となります。洗礼名はドン・フランシスコです。

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