平安時代

 桓武天皇は現在の京都、平安京に遷都しました。ここから鎌倉に政権が移るまでの約400年間を平安時代と言います。この時代は貴族文化が花開き、政治も藤原氏が握っていました。後半は武士が誕生し、平清盛が実権を握りました。その後源義経が平氏との戦いで大活躍するなど、平氏と源氏が争いを繰り返していました。

安倍晴明(あべのせいめい)[921~1005年]

中国の思想とされる陰陽道を極めた陰陽師で神がかりな力で占ったり予言したりしたと言われています。

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尼御前(あまごぜん)[生没年不明]

源義経一行が都を逃れ北へ向かう際に同行していましたが、足手まといになることを憂い海岸から身を投げたと言われています。

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在原業平(ありわらのなりひら)[825~880年]

平安時代の六歌仙の一人です。「むかし男ありけり」で始まる伊勢物語は在原業平の恋愛物語ではないかと言われています。

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弁慶・武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)[不詳~1189年]

出生や容姿など誇張されて伝わっているため詳細は分からないようです。比叡山で修行した僧で、京都で牛若丸(源義経)と出会い、その後従者となって一生仕えました。

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源平壇之浦合戦絵巻 和布刈(めかり)公園 展望台前(福岡県北九州市門司区大字門司)

壇ノ浦の合戦の様子を陶板壁画で表したものです。「安徳天皇縁起絵図」をもとに、有田焼の陶板で造られています。高さ3m、長さ44m

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藤原清衡(ふじわらのきよひら)・清原清衡(きよはらのきよひら)[1056~1128年]

1051年からの「前九年の役」で多賀国府の源頼義・義家とともに戦った清原氏が東北地方を支配することとなりました。その後一族の内乱が起こり1083年、清原家衛と清原清衡(異父兄弟)が争った「後三年の役」が起こりました。この戦いに源義家が参戦し金沢柵で激しく戦いました。清原武衛・家衛軍は最初優勢でしたが、都から源義家の弟源義光が加勢し形勢は逆転、金沢柵が突破され清原清衡と源義家・義光が勝利しました。この戦いで清原氏は滅亡し東北地方は清原から改姓した藤原氏が支配することとなりました。

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藤原高光(ふじわらのたかみつ)[939~994年]

平安時代の役人で三十六歌仙の一人とされる歌人です。比叡山で出家した後多武峰で庵を結びました。高賀神社周辺の地域には妖怪退治の伝説があります。妖怪を三たび退治したのが天皇の命によりこの地に派遣された藤原高光です。猿虎蛇の体を持つ妖怪を退治した時うウナギが案内しました。そのため今でもこの地区ではウナギを食べないそうです。

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藤原俊成(ふじわら の としなり・しゅんぜい)

「千載和歌集」を撰進するなどした歌人です。

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畠山重忠(はたけやましげただ)[1164~1205年]

源平の合戦で源氏の武将として功績を挙げました。一ノ谷の戦いで愛馬を背負って谷を下ったと語り継がれています。

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清原家衛(きよはらいえひら)[生年不明~1087年]

平安時代の後期、東北地方を実質的に支配していたのは清原一族でした。清原氏の内乱がおこると、清原武衛ともに多賀国府の源義家や藤原清衡の軍と争いましたが金沢柵で敗れました。これで清原氏が滅亡し、清原から改姓した藤原氏が支配していくことになります。

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熊谷直実(くまがいなおざね)[1141~1207年]

源平の合戦で平敦盛と一騎打ちを行ったと伝えられています。

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最澄(さいちょう)・伝教大師(でんぎょうだいし)[767~822年]

中国(唐)に渡り仏教を学びました。天台宗の開祖です。

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空海(くうかい)・弘法大師(こうぼうだいし)[774~835年]

香川県善通寺市で生まれ、遣唐使の留学僧として中国(唐)で学んだ真言宗の開祖です。

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源義家(みなもとのよしいえ)・八幡太郎(はちまんたろう)[1039~1106年]

平安時代の後期、前九年の役以降東北地方を支配していた清原一族の中で内乱が起きました。これが後三年の役です。多賀国府にいた源義家は清原清衡の味方をし、清原武衛・家衛と戦いました。都から駆けつけた弟の源義光も参戦し、金沢柵で武衛・家衛を破りました。

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源義光(みなもと のよしみつ)・新羅三郎(しんらさぶろう)[1045~1127年]

前九年の役に続いて起きた後三年の役では兄の源義家は藤原清衡とともに清原武衡や家衡と戦っていました。しかし、戦いは決して優勢ではなく、その様子を京都で知った義光は兄を助けることを朝廷に願い出ました。朝廷はこれを許さなかったため役職を辞して陸奥に向かいました。そして、清原氏を現秋田県横手市の金沢柵で勝利しました。義光は笙(しょう)の名手でもありました。

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源義仲(みなもとのよしなか)[1154~1184年]

長野県木曽地方から、以仁王による平家追討の命に従い源頼朝とともに立ち上がるが、その後対立、討ち死にしました。

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源義朝(みなもとのよしとも)[1123~1160年]

1156年保元の乱で平清盛とともに後白河天皇側の武将として戦い勝利しました。1159年の平治の乱で平清盛と戦い敗れました。源頼朝、義経の父です。

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源義経(みなもと の よしつね)[1159~1189]

幼名は牛若丸といい、鞍馬山を駆け巡り剣術の修行をしたと言われています。そのため武勇に秀でており、京都五条大橋で武蔵坊弁慶を負かした話は有名です。源頼朝の異母弟でもあり、源平の合戦で大活躍しました。しかし、合戦で勝利した後は兄に疎まれ、東北にて討ち死にしました。

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紫式部(むらさきしきぶ)[生没年不詳]

宮中に仕えた源氏物語の作者です。

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那須与一(なすのよいち)[1169~1189年]

平安時代の末期、源氏と平氏が勢力争いをしました。源氏側にいた那須与一は弓の名手で源義経に従軍していました。屋島の戦いで、沖の平氏の軍船が海岸にいた源氏に向け扇を高く掲げました。これを見た義経が周りにいた武士たちに「誰か射抜いてみよ」と声をかけたところ、若き武者の那須与一が周りの者から推され進み出ましたが自信はありませんでした。しかし、源氏の名誉がかかっており、失敗するわけにはいきません。渾身の力を込めて矢を放ったところ見事平氏の扇を射落とすことができました。これがもとで源頼朝から丹波や信濃などの領地を与えられました。

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小野道風(おののとうふう・みちかぜ)[894~966年]

書家であり、書に優れた三蹟(小野道風・藤原佐理・藤原行成)の一人です。愛知県春日井市が生誕地と伝承されています。

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霊仙(りょうせん)三蔵[生没年不明] 

滋賀県米原市の出身といわれていますが、徳島県の出身という説もあります。法相宗の僧で日本で唯一の三蔵法師を名乗ることができる僧です。

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菅原道真(すがわらのみちざね)[845~903年]

奈良で生まれたとされていますが、出生は諸説あってはっきりしません。天神様として祀られている人物なので、出生も天女から生まれたなど伝説的なものがいくつかあるようです。学問に秀でており、宇多天皇に認められて藤原氏の勢力を抑えるために朝廷の重役に就きました。唐の勢力が衰え始めたため、894年、道真は遣唐使を中止することを提案し、廃止となりました。右大臣となった道真に対する貴族らの反感は強く、左大臣の藤原の陰謀により醍醐天皇から大宰府(福岡県太宰府市)の端役に左遷させられました。

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平清盛(たいらのきよもり)[1118~1181年]

武士として初めて政治権力を握った。「平氏にあらずは人にあらず」とまで言わせるほど平氏の世を強大なものにした。政治の中心地を京都から福原に移そうとして志半ばで没した。

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平知盛(たいらのとももり)[1152~1185年]

源平の合戦の終盤、源義経と壇ノ浦で戦いました。

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清原武衛(きよはらたけひら)[生年不明~1087年]

平安時代の後期、東北地方を実質的に支配していたのは清原一族でした。清原氏の内乱がおこると、清原家衡とともに多賀国府の源義家や藤原清衡の軍と争いましたが金沢柵で敗れました。これで清原氏が滅亡し、清原から改姓した藤原氏が支配していくことになります。

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巴御前(ともえごぜん)[不詳]

源義仲の正室ではありませんが側にいて支えた女性です。武勇にも秀でていたと言われています。

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豊原時秋(とよはらのときあき)[1100~没年不明]

『古今著聞集』では源義光が戦で苦戦している兄の義家を助けるために陸奥の国に出かけるとき、義光の笙の師でもある時秋の祖父の豊原時光(父時元という説もあり)から習った『大食調入詞』という曲を時秋に聞かせて受け継がせたとされています。

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伊東祐親(いとうすけちか)[生年不明~1182年]

別に 河津祐親という呼び名があります。平安時代後期の武将で現在の静岡県伊東市辺りを支配していた豪族です。祐親は所領争いから当時伊東荘を治めていた工藤祐経(くどうすけつね)から所領を奪い返しました。これを怒った祐経祐親の子の河津祐泰(かわづすけやす)を殺しました。祐泰の二人の子はこの仇討ちをしました。これが曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)です。-本サイトで紹介
伊東祐親は平氏方の豪族として、平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に流されたとき、頼朝の監視をしていました。頼朝は伊豆にいる間に祐親の娘の八重姫とよい仲になり千鶴丸か生まれました。祐親は平家に知れることを恐れ、千鶴丸を殺害しました。

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富樫泰家(とがしやすいえ)[生没年不明]

歌舞伎の「勧進帳」で安宅の関の関守だった富樫左衛門は富樫泰家のことと言われています。源平の合戦後、源頼朝は弟義経を追討しようとしました。源義経と弁慶らが山伏の姿に変装して奥州藤原氏を頼って北陸道を通って逃げ延びようとしたとき、安宅の関で関守に呼び止められます。とっさに弁慶は東大寺再建のための勧進帳を読み上げ、さらに義経を杖でたたいて疑いを晴らそうとしました。これを見た関守は通行を許可しましたが、このとき義経一行であることをわかっていたが許可したと言われています。

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南部三郎(なんぶさぶろう) [1165~1236年]

南部三郎光行(みつゆき)は南部氏の始祖とされる人物で、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した源氏方の武将です。源頼朝に仕え、石橋山の戦いや奥州平定に名が見えます。南部三郎は通称で正式には南部光行となっています。別名として信濃三郎とも呼ばれていました。

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坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)[758―811年]

奈良時代の武将坂上苅田麻呂の次男(三男?)として生まれました。生誕地不明。征夷大将軍として朝廷に従わなかった蝦夷(えみし)を討伐しました。

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