幕末~明治初期

 江戸時代後半は鎖国中の日本に外国の船がやってくるようになり開国を求めました。江戸幕府の力が衰え始めてきた1853年アメリカからペリーが黒船で来航し、これが契機となって国内では討幕運動、尊皇攘夷運動などが起こりました。1867年大政奉還により政権が天皇に移譲されるまでの短い期間を幕末とよんでいます。この時代は、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛など長州、薩摩を中心とする武士たちが活躍しました。

天野清三郎(あまのせいざぶろう)・渡邊蒿蔵(わたなべこうぞう)[1843~1939年]

山口県萩で生まれた松下村塾の門下生の一人で、尊王攘夷運動に加わりました。アメリカ・イギリスに留学し造船技術を学びました。帰国してから長崎造船局の初代局長となるなど日本の造船発達に貢献しました。

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天璋院(てんしょういん)・篤姫(あつひめ)[1836~1883年]

薩摩藩の島津家の出身で第13代将軍徳川家定の正室となりました。嫁ぐ前、島津斉彬の養女となり、名を篤子(あつこ)としました。

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白虎隊(びゃっこたい)

 新政府軍と戦うことを決めた松平容保は会津に戻って軍の強化を図りました。その際、各年齢層によって部隊を組織しましたが、16歳から17歳による部隊を白虎隊と呼びました。1868年、 会津に攻め込んだ新政府軍との戦闘が激化し白虎隊は飯盛山に退き、高台から鶴ヶ城を見ました。城は黒煙が上がり燃えているように見えたため、ここで捕まって生き恥をさらすより武士らしく自刃する道を選びました。

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中條金之助景昭(ちゅうじょうきんのすけかげあき)[1827~1896年]

大政奉還後、勝海舟の命により徳川慶喜の警護隊の長となりました。その後徳川家達に同行して静岡に移住します。そして、牧之原台地の開墾を行い明治政府の提言により茶の生産を始めました。

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江川英龍(えがわひでたつ)・坦庵(たんあん・たんなん)[1801~1855年]

江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん) 伊豆韮山の代官となり農政改革に取り組みました。国防の機運が高まると長崎で砲術を学び、大砲や銃製造に取り組みます。そして、韮山反射炉築造を始めました。

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五代友厚(ごだいともあつ)[1836~1885年]

薩摩で生まれ、幼名は才助(徳助とも)です。長崎海軍伝習所で勝海舟、榎本武揚らと出会い、高度な西洋技術を取り入れるためイギリスに渡りました。明治政府の下、大阪で鉱山、製銅、鉄道、など多くの事業を手掛け、大阪商法会議所の会頭となりました。

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トーマス・ブレーク・グラバー[1838~1911年]

 スコットランドで生まれたグラバーは1859年、21歳の時に長崎にやってきました。イギリス系の貿易会社「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理人としてグラバー商会を設立し、特に薩摩、長州、土佐藩などの討幕派に武器や弾薬を売る武器商人でした。

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維新の群像・萩往還(はぎおうかん)

萩と防府市三田尻を結ぶ萩往還(国道32号)は勤皇の志士たちが行き来した道です。゜高杉晋作・吉田松陰・久坂玄瑞゜゜天野清三郎・野村和゜゜山県有朋・木戸孝允・伊藤博文゜゜品川弥二郎・山田顕義゜の10人の像があります。

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橋本左内(はしもと さない)[1834~1859年]

福井県で生まれました。緒方洪庵の門下生となり蘭学・医学などを学びました。開国論を唱え安政の大獄で処刑されました。

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土方歳三(ひじかたとしぞう)[1835~1869年]

東京都日野市石田で生まれました。剣術修行を重ね天然理心流を継承しました。新選組(新撰組)の鬼の副長として京都の治安を守りました。戊辰戦争の際新政府軍と戦い、五稜郭で討ち死にしました。

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井伊直弼(いいなおすけ)[1815~1860年]

幕末 彦根藩主 1858年幕府の大老となり開国を進めるため日米修好通商条約に調印しました。幕府に反対する者たちを弾圧(安政の大獄)し、1860年桜田門外の変で暗殺されました。

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維新の門(高知県高岡郡梼原町)

幕末の勤王の志士たちは梼原の地をぬけ表舞台に出て行きました。坂本龍馬、那須俊平、信吾、澤村惣之丞、吉村虎太郎、中平龍之助、前田繋馬、私財をなげだし援助した掛橋和泉らの偉業を称え8人の像が建てられています。

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エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン[1804~83年]

ロシア帝国サンクトペテルブルクの出身でロシア艦隊司令長官として1853年長崎に来航しました。1854年に日露和親条約、1858年年日露修好通商条約を次々と締結しました。1854年にプチャーチンは帆船ディアナ号に乗って下田に来港しました。この年の12月、安政東海地震が発生し津波で沈没しました。

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岩崎 弥太郎(いわさき やたろう)[1835 ~1885年]

高知県安芸市で生まれた三菱財閥の創設者です。長崎では外国との貿易利益を得、で大阪で土佐商会を運営し、後に私営の郵便汽船三菱会社として海運業を発展させました。

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じゃがたら娘

長崎では平戸にあったオランダ商館に勤めていた外国人との混血児が生まれていましたが、母子ともオランダ船でジャカルタに追放となりました。

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ジョン万次郎(じょんまんじろう)[1827~1898 年]

本名は中浜万次郎・中濱萬次郎(なかはままんじろう)で高知県土佐清水市中浜で生まれました。漁に出て遭難し伊豆諸島の無人島でアメリカの捕鯨船に救助されました。アメリカに渡って船長の養子となり、航海術や造船技術などを学び、捕鯨船員として働きました。帰国してからは土佐藩校の教授や通訳として働き、勝海舟や福沢諭吉らとともに咸臨丸で再渡米しています。

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掛橋和泉(かけはしいずみ)[1835~1862]

比較的裕福な家に養子として入り、脱藩していく勤王の志士たちを金銭的に援助しました。

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金子重之輔(かねこ しげのすけ)[1831~1855年]

長州山口出身の武士で江戸の藩邸に勤めていたころ吉田松陰と出会いました。松陰とともに伊豆下田に停泊中のアメリカ船に乗り込もうとしましたが失敗、藩に強制送還後投獄されました。

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吉田松陰(よしだしょういん)[1830~1859年]

高知県萩で生まれ、幼名は杉虎之助、養子に入り吉田寅次郎と名乗りました。山鹿流兵学師範となり江戸で佐久間象山らに学びました。ペリー来航を知り金子重之助とともに密航を企てて失敗し萩で投獄されました。その後、叔父の松下村塾を引き継ぎ、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋などを教えました。安政の大獄で江戸に送られ処刑されました。

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吉田松陰妹・杉文・楫取美和・美和子(かとりみわこ)像[1843~1921年]

吉田松陰の妹として松下村塾に出入りする志士たちとの交流があり、その一人久坂玄瑞と結婚しました。久坂が新政府軍と戦い自害すると、義兄である小田村伊之助を助けて働きました。姉が病弱で亡くなった後、群馬県令となった楫取素彦(小田村伊之助)の妻となりました。

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勝海舟(かつかいしゅう)[1823~1899年]

勝安芳(かつやすよし) 幼名は勝麟太郎(かつりんたろう)蘭学や兵学を学んだ勝は幕府の使節団として咸臨丸でアメリカへ渡りました。帰国後は軍艦奉行、神戸に海軍操練所を開きました。西郷隆盛と話し合い、江戸城無血開城を実現しました。

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木戸孝允 (きど たかよし)・桂小五郎(かつらこごろう)[1833~1877]

長州山口県萩の出身で吉田松陰の門下生となりました。幕末の争乱時、西郷隆盛と薩長同盟を結び討幕運動を進めました。新政府の中心人物として「五箇条の誓文」「版籍奉還」や「廃藩置県」に取り組みました。

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小松帯刀・小松清廉(こまつたてわき・きよかど)・肝付尚五郎[1835~1870年]

薩摩藩の肝付(きもつき)氏の三男として生まれましたが、その後小松氏の養子となりました。島津久光の家老となり、藩の政治を指揮しました。坂本龍馬が仲立ちした薩長同盟や大政奉還の時に活躍しました。

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近藤勇(こんどういさみ)[1834~1868年]

京都を警備する組織を一つにまとめ、京都守護職の下、新撰組を結成し局長となりました。尊王攘夷論を支持する浪士たちを取り締まりました。新撰組は京都三条の池田屋に集まっていた浪士たちを襲撃し一躍名をあげました。

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久坂玄瑞(くさかげんずい)[1840~1864年]

長州藩医の子として萩で生まれました。長州藩士となり松下村塾に入門して吉田松陰の門下生となり尊王攘夷運動を推し進めました。吉田松陰の妹の杉文を妻としました。高杉晋作らと尊王攘夷運動の中心となって働き藩を指揮しましたが、京都御所蛤 (はまぐり) 御門付近で幕府軍と戦い(禁門の変)敗れました。

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松平春嶽(まつだいらしゅんがく)[1828~1890年]

松平春嶽(慶永よしなが)は越前福井藩主です。藩政改革に努め、桜田門外の変以降幕政に参加し公武合体政策を推し進めました。大政奉還後の新政府においても重要な役に就いています。

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毛利敬親 ・慶親(もうりたかちか・よしちか)[1819~1871年]

長州藩の第13代藩主です。村田清風(せいふう)など有能な家臣を登用して藩政の改革を推し進め、富国強兵策を実現するよう努力しました。

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中平龍之介(なかひらりゅうのすけ)[1842~1864]

高知県檮原(ゆすはら)で生まれました。勤王の志士として脱藩し他の志士らとともに攘夷運動に参加しました。

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中岡 慎太郎(なかおか しんたろう)[1838~1867年]

高知県安芸郡北川村で生まれました。土佐勤王党に入り、尊王運動に参加しました。後に脱藩して討幕運動に参加し、薩長同盟を成立させ、陸援隊を組織して隊長として活動しました。大政奉還の後、京都近江屋で坂本龍馬とともに幕府見廻組に暗殺されました。

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那須信吾(なすしんご)[1829~1863]

本名は那須重民、土佐高知藩の郷士で土佐勤王党に入り活動しました。天誅組の乱に参戦し、吉野でなくなりました。

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那須俊平(なすしゅんぺい)[1807~1864]

那須重任(しげとう)、「土佐一の槍の名手」と言われ道場を開いていました。坂本龍馬の脱藩を子の那須信吾とともに助けました。

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野村靖(のむらやすし)・野村和作(のむらわさく)[1842~1909年]

山口県萩で生まれました。吉田松陰の門下生となり尊王攘夷運動に参加しました。明治維新の後、新政府の役人となり岩倉使節団に加わりヨーロッパを視察しました。その後、枢密顧問官、駐仏公使を歴任し、伊藤内閣の内務大臣も勤めました。

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大村益次郎(おおむらますじろう)[1824~1869年]

山口出身で兵学や医学を学び、藩の軍制改革に取り組みました。明治新政府の下で近代的な軍隊の整備に取り組みました。

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お龍・君枝姉妹

坂本龍馬の妻龍とその妹の君枝です。君枝は龍馬が組織した海援隊に所属していた菅野覚兵衛の妻となりました。高知の桂浜に建つ坂本龍馬像の方を向いて手を振る姿です。

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王直・汪直(おうちょく)[不詳~1559年]

本名王鋥( おうとう) は中国の安徽省(あんきしょう)出身で長崎県五を本拠地とした密貿易商人です。中国・朝鮮沿岸に出没した海賊「倭寇(わこう)」の首領です。

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マシュー=カルブレイス=ペリー(ぺりー)[1794~1858年]

Matthew Calbraith Perry(マシュー・カルブレイス・ペリー) アメリカの海軍軍人で東インド艦隊の司令官です。1853年(嘉永6年)、日本に開国を要求するため蒸気船で浦賀に入港しました。1854年江戸湾に入港し、日米和親条約を締結させました。

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龍馬脱藩の道 飛翔の像(愛媛県大洲市河辺町)

坂本龍馬は脱藩の際愛媛県大洲市河辺を沢村惣之丞、那須俊平とともに通りました。左-沢村惣之丞、中-坂本龍馬、右-那須俊平の像です。

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西郷隆盛(さいごうたかもり)[1827~1877年]

本名 西郷隆永(たかなが)  鹿児島で生まれ、幼名は吉之介(吉之助 きちのすけ)です。藩主島津斉彬や久光の下で討幕運動の中心となって活躍しました。新政府では参議や陸軍大将となりましたが征韓論で政府と対立し、西南戦争が起こりました。敗戦した西郷は城山で自害しました。
隆盛という名は明治になって父の名、西郷吉兵衛隆盛から間違ってつけられました。隆永(たかなが)が正しい名前です。また、西郷は写真をいやがりましたから残っていません。そのため上野の銅像の顔は弟と従兄弟の写真から想像して造られたものです。

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坂本龍馬(さかもとりょうま)[1835~1867年]

才谷梅太郎(さいたにうめたろう) 土佐高知で生まれました。脱藩して勝海舟の弟子となり西洋に目を向け開国論を唱えました。神戸の海軍操練所のあと長崎で亀山社中(海援隊)を組織し貿易を進め、西郷隆盛と木戸孝允を仲立ちし薩長同盟を成立させました。龍馬の考えた「船中八策」は後の大政奉還のもととなりました。京都で暗殺されました。

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佐久間象山(さくましょうざん)[1811~1864年]

幕末 長野県で生まれました。江戸で朱子学や蘭学を学び開国論や公武合体を唱えました。自ら開いた塾では西洋砲術などを教え、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らに影響を与えました。また、沿岸警備の重要性を「海防八策」として老中に提出しています。京都で攘夷派に暗殺されました。

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若き薩摩の群像 (鹿児島県鹿児島市 JR鹿児島中央駅前)

1863年、薩摩藩は鹿児島湾でイギリスと交戦しましたがこれがきっかけとなりイギリスと関係を深めることとなりました。イギリスの技術や文化に関心を示した薩摩藩は1865年(慶応元年)、藩内の青少年15名(最年少は13歳)と使節団4名の計19名の薩摩藩遣英使節団をイギリスに派遣しました。彼らはイギリスの学問や技術を学び帰国し、日本の近代化に大きく貢献しました。
新納久修(にいのうひさのぶ)、町田久成(まちだひさなり)、松木弘安(まつきこうあん)、五代友厚(ごだいともあつ)、名越時成(なごしときなり)、吉田清成(よしだきよなり)、中村博愛(なかむらはくあい)、市来和彦(いちきかずひこ)、森有礼(もりありのり)、村橋直樹(むらはしなおき)、畠山義成(はたけやまよしなり)、鮫島尚信(さめしまなおのぶ)、田中盛明(たなかもりあき)、東郷愛之進(とうごうあいのしん)、町田実績(まちださねつみ)、町田清次郎(まちだせいじろう)、磯永彦助(いそながひこすけ)、高見弥一(たかみやいち)、堀孝之(ほりたかゆき)

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澤村惣之丞(さわむらそうのじょう)[1843~1868]

高知県高知市で生まれました。土佐勤王党に加わりましたが、坂本龍馬と脱藩し海援隊の一員として活躍しました。

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島津久光(しまづひさみつ)[1817~1887]

鹿児島で生まれました。島津忠教(ただゆき)が名で久光は後につけた名です。薩摩藩の第11代藩主島津斉彬の異母弟、第12代藩主忠徳の国父として斉彬後の藩政において実質的な権力を有していました。新政府では左大臣となりますが武士の身なり・帯刀をやめませんでした。

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島津斉彬(しまづなりあきら)[1809~1859年]

薩摩藩主で中国や西洋の学問・技術に興味を持ち日本初の西洋式機械工場である「集成館」を建造しました。また、西郷隆盛や大久保利通など有能な下級武士を藩政に参加させました。

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島津忠義(しまづただよし)[1840~1897]

幕末の藩主島津久光の子で、島津忠徳(ただのり)や茂久(もちひさ)と名乗り薩摩藩の第12代藩主、後に薩摩藩知事となりました。

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下岡蓮杖(しもおかれんじょう)(静岡県下田市下田公園)

静岡県下田市で生まれ、本名は下岡久之助、横浜に来ていたアメリカの写真家から写真術を学び、横浜で写真館を開業しました。

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品川弥二郎(しながわやじろう)1843~1900年

山口県萩市で生まれました。吉田松陰の門下生で高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に奔走しました。明治新政府の下ではドイツやイギリスへの留学経験を生かし重要な役を歴任しました。

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菅実秀(すげさねひで)[1830~1903年]

山形県鶴岡で生まれました。西郷隆盛に師事し、隆盛没後「南洲翁遺訓」を刊行しました。

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高杉晋作(たかすぎしんさく)[1839~1867年]

山口県萩市で生まれました。吉田松陰の門下生で尊王攘夷運動に参加し奇兵隊を組織して総督となりました。その後、下関砲撃事件が起こると後処理の交渉にあたりました。薩長同盟を締結し討幕運動へと藩の流れを主導していきました。

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武市瑞山(たけちずいざん)・武市半平太(たけちはんぺいた)[1829~1865年]

高知県高知市で生まれました。江戸で尊王攘夷派との交流から「土佐勤王党」を結成し、これに坂本龍馬や中岡慎太郎らも加わりました。藩の重臣で開国派の吉田東洋を暗殺し、土佐を勤王思想でまとめていきました。

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戸田伊豆守氏栄(とだいずのかみうじよし)[1799~1858年]

1853年、ペリー来航の時の幕府代表として井戸弘道とともにペリーと会談をしました。鎖国中であることを伝えるがペリーはこれに応じず、仕方なくアメリカのフィルモア大統領の親書を受け取りました。1854年に再来航した際にも幕府代表として、日米和親条約を結びました。

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唐人お吉(とうじんおきち)・斎藤きち(さいとうきち)[1841~1890年]

愛知県南知多町で生まれた斎藤きち(さいとうきち)は伊豆下田で芸者をしていました。アメリカ総領事ハリスが病気となった際、その世話をしたのがお吉でした。お吉の生活は裕福となりましたが、人々の偏見により酒におぼれる生活となりました。最後は稲生沢川に身を投げました。

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上野彦馬(うえのひこま)[1838~1904年]

長崎で生まれた幕末の写真家です。長崎で開業した上野撮影局は日本最初の写真館です。

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渡辺 崋山(わたなべ かざん)[1793~1841年]

愛知県田原藩の子として江戸で生まれ儒学、蘭学を学びました。1839年幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で田原で蟄居(ちっきょ)させられました。

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山田顕義(やまだあきよし)1844~1892年

山口県萩市で生まれました。吉田松陰の最後の門下生と言われています。岩倉使節団の一員として各国の兵制を学び、東京鎮台司令長官、司法大臣など政府の柱となって活躍しました。明治法典を編纂しました。

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山田方谷(やまだほうこく)(1805~1877年)

山田安五郎 備中松山藩(岡山県高梁市)の生まれです。江戸で陽明学などを学び、藩主板倉勝静(かつきよ)の抜擢により藩の重役について財政改革を行い成功させました。岡山県閑谷(しずたに)学校の再興にに貢献しました。

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山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)[1836~1888年]

本名は山岡高歩(たかゆき) 山岡鉄太郎が通称です。千葉周作から剣術を学び、春風館という道場を開いて教えました。幕府の剣術世話役や浪士取締役として働き、戊辰戦争の際、勝海舟の命により西郷隆盛と会見しました。この後、勝と西郷が会見し、江戸城無血開城となりました。

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山内容堂 ・豊信(やまうちようどう ・とよしげ)[1827~1872年]

山内豊信(とよしげ) 鯨海酔侯(げいかいすいこう) 高知城下で生まれ幼名は輝衛(てるえ)といいます。第15代の土佐藩主です。吉田東洋を登用して藩政改革を行いました。公武合体を推し進め土佐勤王党を弾圧し、後に15代将軍徳川慶喜に大政奉還を建白しました。

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横井小楠(よこいしょうなん)[1809~1869年]

平時存(たいらのときひろ・ときあり)通称は平四郎といいます。熊本県内坪井町で生まれました。福井藩主松平春獄に招かれて福井入りし、藩政改革を指導しました。明治新政府では参与になりましたが暗殺されました。

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吉村虎太郎・寅太郎(よしむらとらたろう)[1837~1863年]

高知県出身で、尊皇攘夷運動に参加し土佐勤王党に加わりました。土佐藩を脱藩し京都で活動し、寺田屋事件にも関与しました。吉村寅太郎など尊皇攘夷派浪士らは天誅組を組織し公卿の中山忠光を主将として奈良で決起しましたが幕府軍と戦い敗れました。

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由利公正(ゆりきみまさ・こうせい)[1829~1909年]

三岡八郎 福井で生まれ、横井小楠から学びました。松平春嶽に見いだされ、藩政や兵制の改革につとめました。明治新政府では参与となり、財政政策を担当しました。また、五箇条の誓文の起草に参画しました。東京府知事や貴族院議員を歴任しました。

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所郁太郎(ところいくたろう([1838~1865年]

岐阜県赤坂出身で適塾で緒方洪庵から学びました。京で医者となり長州藩の医院総督となりました。井上馨が襲われた際、治療をし命を救いました。

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梁川星巌(やながわせいがん)[1879~1858年]

梁川新十郎 岐阜県大垣市曽根町で生まれました。漢詩人で1820年に紅蘭と結婚しました。吉田松陰ら勤王の志士との交わりもありましたが、安政の大獄の前に病死しました。

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梁川紅蘭(やながわこうらん)[1804~1879年]

岐阜県大垣市曽根町の生まれの女流漢詩人で梁川星巌と結婚して全国を周遊しました。安政の大獄で尋問されますが釈放されました。

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阿部正弘(あべまさひろ)[1819~1857年]

福山藩主でペリー来航時は老中となっていました。アメリカの開国要求に対し諸大名らの意見を聞いた上で1854年日米和親条約を結びました。これは実質的に開国となっていきました。オランダの軍人を教官とする海軍伝習所をつくり国防に勤めました。

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清水次郎長(しみずのじろちょう)山本長五郎(やまもとちょうごろう)[1820~1893年]

清水区美濃輪に生まれ、米問屋の養子となりました。しかし、20歳の時家を出、侠客の道に入りました。刀の腕前も強かったのですがそれ以上に知恵者でもありました。また、義理人情に厚いことから多くの子分を従えるようになり、東海道ではその名を知らない者はいないと言われるほどになりました。明治になると社会活動を盛んに行うようになりました。山岡鉄舟との親交もあり、富士山麓の開墾や新田開発に努めました。日本が外国との貿易を始めると、若者に英語教育ができるように環境を整え、また、清水港の発展のため港湾整備をしました。

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南蛮人

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アントニウス・フランシスカス・ボードウィン[1820~1885年]

オランダ陸軍に所属していましたが、鎖国中の日本に来し、蘭学や医学を広めました。上野恩賜公園は上野の自然を守るためボードウィンが提言してつくられたものです。

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松平容保(まつだいらかたもり)[1836~1893年]

江戸の高須藩邸で藩主の6男として生まれ、幼名は銈之允といいます。12歳の時会津藩の8代藩主の養子となりました。そして、18歳で9代藩主となります。28歳の時、京都の治安維持と御所や二条城の警備などを行う京都守護職に任ぜられました。そして、反乱を抑えるために新撰組を発足させました。

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山本八重(やまもとやえ)新島八重(にいじまやえ)[1845~1932年]

会津藩の鉄砲師範だった父の子として会津で生まれました。鉄砲による戦いこそが有利と説き、幕末の会津戦争では自ら銃を持って鶴ケ城に籠城して戦いました。同志社を設立した新島襄と結婚しました。2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公です。

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シーボルト(しーぼると)[1796~1866年]

"フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold)
ドイツで生まれました。1823年に長崎のオランダ商館に医師として来日しました。長崎郊外で西洋医学や蘭学を教えるための塾を診療所を兼ねて開き(鳴滝塾:なるたきじゅく)多くの日本人に影響を与えました。塾生には伊東玄朴や高野長英らがいます。ドイツに帰国をする際、外国への持ち出しが禁止されていた地図を積み荷に入れていたことがわかり、国外追放となりました。これがシーボルト事件です。 明治になって再び来日しました。"

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釜鳴屋平七(かまなりやへいしち)[1828~1863年]

鮪(まぐろ)網の権利をめぐって村役人に抵抗し、韮山(にらやま)代官所に直訴しました。捉えられて遠島(えんとう 島流し)を申し付けられ、八丈島に送られる途中の大島で亡くなりました。

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安井息軒(やすいそっけん)[1799~1876 年]

江戸時代の儒学者です。日向の藩士の子として生まれました。昌平坂学問所で儒学を教授しました。ぺリー来航後「海防私議」を著し海防について論じることが多くなりました。

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ブラキストン(Thomas Wright Blakiston)[1832~1891年]

トーマス・ライト・ブレーキストン イギリスの軍人です。幕末に日本に来て函館で貿易商を営みました。また、鳥類の研究を行い、本州と北海道の間にある津軽海峡には境界線があると発表しました。この線をブラキストン線・ブラ キストン・ラインと呼んでいます。

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大友亀太郎(おおともかめたろう)[1834~1897年]

現在の神奈川県小田原市で農家の子として生まれました。二宮尊徳の弟子となり農業について学びました。江戸幕府は蝦夷地開拓を進めており、大友がその役に就きました。1858年に北海道に渡り、道路整備や橋造り、大友堀と呼ばれた人工水路造りなどを行いました。

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武田斐三郎(たけだあやさぶろう)・武田成章(しげあきら) [1827~1880年]

現在の愛媛県大洲市で伊予大洲藩士の子として生まれました。緒方洪庵の下で学び、佐久間象山や吉田松陰らと出会って大きな影響を受けました。幕府の命により蝦夷地や樺太を巡察し、箱館でペリーと会談しました。箱館奉行所で働くとともに洋式築城となる星形要塞の五稜郭の設計・建設にも携わりました。

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新島襄(にいじまじょう)[1843~1890年]

安中藩士の子として江戸で生まれました。本名は七五三太(しめた)です。 アメリカに渡航することを画策し、箱館(函館)から密航しました。密航船内でジョーと呼ばれていたため、後に「襄」と改名しました。アメリカでキリスト教の洗礼を受け大学で学びました。このとき北海道の開拓に尽力するクラーク博士からも学びました。岩倉使節団として渡米していた木戸孝允と出会い、各地を訪問するとともに渡欧し教育制度を見聞する機会をも得ました。帰国して同志社英学校(同志社大学)を創立しました。

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小林虎三郎(こばやしとらさぶろう)[1828~1877年]

越後国の長岡藩士の子として生まれました。幼少期に病気のため左目を失明したと言われています。佐久間象山の門下生の一人で、吉田松蔭らとともに儒学、蘭学などを学びました。戊辰戦争(北越戦争)で敗れた長岡藩は減収となり藩士らの生活も困窮しました。これを見かねた越後の三根山藩(みねやまはん)が米を百俵寄贈しました。当時藩の大参事であった小林虎三郎はこれを藩士に配ることなく売却し、長岡のたてなおしのために学校(国漢学校)を設立することとしました。この話は「米百俵の精神」として後世にまで伝えられています。

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真田幸貫(さなだゆきつら)[1791~1852年]

江戸時代に寛政の改革を行った松平定信(楽翁)の子として江戸で生まれました。後に松代藩真田家の養子となり第8代藩主として活躍しました。また、佐久間象山を顧問とし藩政改革に努めました。天保の改革を行った水野忠邦の尽力により、幕府の老中となりました。

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伊地知、吉井、政変について語る碑(中央公園 鹿児島県鹿児島市山下町4)

伊地知正治(いじちまさはる・しょうじ)・伊地知竜右衛門[1828~1886年]
薩摩藩士の子として生まれ、幼少時の病気がもとで片目片足に障がいがありました。精(誠)忠組に参加し類まれな戦術家で禁門の変や戊辰戦争では大きな功績を挙げました。
吉井友実(よしいともざね)吉井仁左衛門[1828~1891年]
薩摩藩士の子として生まれました。西郷隆盛や大久保利通など薩摩を代表する志士らと親交があり、精(誠)忠組の中心人物となって活躍しました。

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西郷従道(さいごうじゅうどう・つぐみち)[1843~1902年]

西郷隆盛とは15歳下の弟で本名は隆興、通称は信吾でNHK大河ドラマでは兄からこの名を呼ばれていました。山形有朋らと明治2年に渡欧しフランス兵制を調査しました。西南戦争では兄隆盛に同行せず新政府に残りました。伊藤内閣の下で海相、農商務相を勤め、その後海軍大将、元帥となりました。

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ウィリアム・ウィリス[1837~1894年]

北アイルランドで生まれたウィリスはイギリス人医師として幕末時に来日し日本に高度な西洋医学をもたらしました。西郷隆盛と親交がありましたが西南戦争が始まると帰国しました。

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