有間皇子の変


   「家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る

(我が家にいれば器に食べ物を盛るのに,今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)
万葉集に残されている有間皇子作の歌で,捕らわれて紀の国に護送されるとき詠んだとされる。単に器を使って食べていないから詠んだ歌とは解したくない。生か死かの不安な気持ちの中で,椎の葉に飯をのせて神に供えるているのであろう。

   

毎年11月,若くして悲運に散った万葉の
貴公子有間皇子のまつりが開催される
有間皇子のまつり
(和歌山県海南市 藤白神社)

大化の改新以降の政治の中心人物は中大兄皇子(後の天智天皇)だった。しかし,皇位継承などでしばしば争いが起きたこの時代のこと,中大兄皇子にとっても自らの立場を安定させるためには今後起きるかもしれない争いを予想し事前に消し去っておくことは重要なことでもあった。 間皇子は孝徳天皇の子で有力な皇位継承者の一人。孝徳天皇は中大兄皇子の母斉明天皇の弟にあたり,中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係となる。難波宮に天皇を残し,飛鳥に戻ってしまった中大兄皇子にとって有間皇子の存在は放ってはおけないものであった。
 640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。

有馬温泉
傷ついた3羽の烏が水たまりで水浴びをしていると,数日で傷が癒えてしまった。その様子を大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の2神が見ていて,この水こそ万病に効く温泉だとして世に広めた。日本書紀には中大兄皇子や大海人皇子の父の舒明天皇が入浴したと記述している。また,叔父の孝徳天皇とその后の阿部小足媛もここを訪れた。この時,有間皇子が誕生した。
極楽寺(聖徳太子創建) 岩風呂遺構(安土桃山時代遺構)
有馬温泉は過去幾度かの洪水や土砂崩れによって衰退と復興を繰り返している。奈良時代には行基が再興し,温泉寺を創建して薬師如来を祀った。鎌倉時代になると僧仁西(にんさい)が復興した。この時,杖捨橋付近にあって崩壊していた極楽寺も現在の場所に移したとされる。豊臣秀吉は有馬を何度も訪れている。温泉寺の近くに「湯山御殿」を建てたと伝えられていたが,阪神大震災の復旧工事の際,極楽寺本堂横の庫裏下から岩風呂や蒸し風呂,庭園跡などが発掘された。現在,太閤の湯殿館という資料館が開設され,遺構が保存されている。

645年9月,蘇我蝦夷・入鹿が中大兄皇子や中臣鎌足によって滅ぼされ再び政治の実権が天皇にもどったとき,皇極天皇は位を子の中大兄皇子に譲ろうとした。しかし,中臣鎌足は古人大兄皇子や叔父の軽皇子との関係を考え,これを辞退するように勧めた。そんな折り,蘇我入鹿が皇極天皇の後継にとしていた古人大兄皇子は皇位継承の意志がないことを伝え吉野で出家するが,蘇我氏の血を引いていたため謀反を企てたとされ,中大兄皇子が送った兵によって処刑される。649年には義父の蘇我倉山田石川麻呂も自殺させられている。

皇極天皇の後継者は弟の軽皇子と決まり,即位して孝徳天皇となった。そして,孝徳天皇は難波長柄豊碕宮に遷都して政治の改新を勧めるが,皇太子となった中大兄皇子が実質的に政治の中心にたっていたので,天皇は名肩書きでしかなかったのかもしれない。
653年,中大兄皇子は孝徳天皇に難波から大和へ都を遷すことを相談するが,天皇は認めなかった。こうして中大兄皇子と孝徳天皇の間に溝ができていく。そして,中大兄皇子は皇極天皇や弟大海人皇子,妹で天皇の皇后の間人(はしひと)皇女や都の役人らを連れて飛鳥へもどってしまう。孝徳天皇は難波に一人残され寂しく暮らすうちに,皇位を捨てて山背の山崎(京都府乙訓郡大山崎町)に移り住むことを考えるようになる。

「鉗着け 吾が飼う駒は 引出せず 吾が飼う駒を 人見るつらむか」
逃げないようにと首に鉗を付けて飼っていた駒を誰が引き出して見たのか・・・・大切な妻と誰かが会っていた(密通していた。 妻=間人皇女 誰=中大兄皇子 の兄妹で深い関係にあったことに対しての恨みの意味がこもった歌とされる。)

飛鳥稲淵宮殿跡(河辺行宮-奈良県高市郡明日香村)
654年,難波の都で孝徳天皇は病になる。この知らせを聞いて中大兄皇子や皇極天皇,大海人皇子,間人皇女らは見舞いに出かけている。しかし,10月10日,孝徳天皇は寂しくこの世を去った。有間皇子はこのとき15歳だった。
孝徳天皇が亡くなり,中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握ったまま,中大兄皇子の母が再び斉明天皇として即位した(重祚)。

父孝徳天皇がいなくなり,子の有間皇子は次の天皇の候補者として表に出されるようになる。しかし,中大兄皇子の存在は脅威であったろう。日本書紀によると657年9月,18歳の有間皇子は狂人のふりをしたとある。皇子はその治療のため紀伊の牟婁(むろ)の湯にでかけた。

都に戻った有間皇子は斉明天皇に「その場所を見ただけで病気が治る」と牟婁(むろ)の湯のことを報告した。この言葉を聞いた天皇は大変喜んだ。


改装される前の中の様子
以前は木製の囲いがしてあるだけの簡素な造りだったが石組みの囲いに改装された。外観は改装されたが岩風呂は以前と変わりはない。

ナトリウム-塩化物泉(中性高張性高温泉)
無色透明,微弱硫化水素臭,塩味

和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎1668

海岸にある崎の湯

海岸から入り口を見る

崎の湯前の海岸
牟婁の温湯(紀の温湯:崎の湯:和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)
崎の湯は湯崎温泉の中でも最も古い温泉で,高温の湯と露天岩風呂は当時の姿を今に伝える
日本書紀等によれば,ここに有間皇子や斉明天皇・天智天皇・持統天皇・文武天皇らが行幸したとある
 658年10月,斉明天皇は有間の皇子の薦めにより,中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に船を使って行幸した。5か月前に中大兄皇子の子の建王(たけるのおう)が8歳で亡くなっているが,言葉が話せなかった皇子で斉明天皇はたいそうかわいがっていた。この行幸は悲しみをいやす旅でもあった。旅の途中,この孫のことを歌に詠んだ。
「水門(みなと)の 潮(うしお)のくだり 海くだり 後も暗(くれ)に 置きてか行かむ」
(斉明天皇と建王は越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ奈良県高市郡高取町に合葬されている

 天皇らが飛鳥を離れている11月のある日(3日か),都に残って留守役を勤めていた蘇我馬子の孫の蘇我赤兄(あかえ)は有間皇子の市経(いちふ-奈良県生駒町)の家を訪ねた。
赤兄は有間皇子に天皇の3つの失政を語った。
①天皇が大きな倉庫に人々の財を集めている。
②大がかりな土木工事を行い,長い用水路造りを行っている。(「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」とよばれていた)
③船で石を運んで丘を築き,人々を苦しめている。
これを聞いた有間皇子は赤兄が自分に好意を持っているといたく喜び,「我が生涯で初めて兵を用いるべき時がきた」と言った。

 2日後(11月5日か),今度は有間皇子が赤兄の家を訪ね,謀反の相談をしていると有間皇子の脇息(きょうそく-座ったとき体をもたせかけるためのひじかけ)が壊れてしまう。これは不吉なことと知り,謀反の相談を中止し,この話はなかったこととして互いに秘密を厳守することを誓って帰った。

 有間皇子が帰った後,赤兄は物部朴井連鮪(もののべのえのいのむらじしび)に命じて都の工事の人夫を率いて有間皇子の家を取り囲ませた。有間皇子は就寝中であったが起こされ,守君大岩(もりのきみおおいわ)ら4人とともに捕らわれた。このことは牟婁の温湯にいる天皇に早馬で知らせた。有間皇子は赤兄の裏切りによるものだと知ったが,赤兄は中大兄皇子を助ける重臣の一人であり,自分とともに謀反を起こすはずがないと気づくのに遅れた。赤兄の家を訪ねたことは事実であり,どう弁明しても逃れられないと悟った有間皇子は,抵抗せず,天皇のいる牟婁の温湯へと送られていった。


護送の途中,磐代(いわしろ-和歌山県南部町)で休息中に歌を詠んだといわれている。

岩代の松(和歌山県南部町)
   「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む
   (磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたらまたこれを見よう)   
「家にあれば・・・」と同様,生か死かの不安な気持ちの中にもわずかな生への望みを表現していると読める。ただ異説があって,連行される時に詠んだのではなく,1年前の牟婁の温湯に出かけたときの歌ではないかともされている。

11月9日夕刻,中大兄皇子が捕らわれて護送されてきた有間皇子に「なぜ謀反を企てたのか」と問うと,有間皇子は「天と赤兄と知る。私は全く知らない。」とだけ答えた。2日後の11月11日,有間皇子は藤白坂にて処刑された。まだ19歳の若さであった。供の4人の内2人が斬り殺され,残りは流罪となった。



藤白神社(和歌山県海南市藤白)
紀の温湯(白浜町)に行幸の際,斉明天皇により創建された

有間皇子神社(春 藤白神社境内)
「不幸は自分だけでよい。若者は己の生命を精一杯生きてほしいと皇子の魂は願っている。」(藤白神社案内より)

熊野古道 藤白坂 ここで処刑される

有間皇子の墓と歌碑(和歌山県海南市藤白)
和歌山県御坊市にある岩内1号墳(別名 みこ塚古墳)和歌山県御坊市岩内
 7世紀中頃に造営された一辺13mの方墳。発掘調査によって,鉄製六花形飾り金具をつけた木棺に銀線蛭巻太刀(ぎんせんひるまきのたち),須恵器などが石室内から発見された。また,版築によって造営されていることから,高貴な人物の墓ではないかとされ,有間皇子の墓ではないかと言われている。(御坊市歴史民俗資料館(御坊市塩屋町南塩屋1123に太刀が展示されている。)

この事件,蘇我赤兄の裏切りなのか,もともと中大兄皇子が仕組んだものか,真相は謎のままとなっている。




奈良薬師寺東院堂
 奈良の薬師寺に国宝東院堂がある。寺伝によると,ここのご本尊の国宝聖観世音菩薩像は白鳳時代の仏像で,その顔は有間皇子を模したものと言われている。
*「有間皇子のまつり」画像 藤白神社使用許可済
藤白神社では毎年11月の第2日曜日に「有間皇子のまつり」が開催されている。
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