有間皇子の変 | ||
「家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る」
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640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。
645年9月,蘇我蝦夷・入鹿が中大兄皇子や中臣鎌足によって滅ぼされ再び政治の実権が天皇にもどったとき,皇極天皇は位を子の中大兄皇子に譲ろうとした。しかし,中臣鎌足は古人大兄皇子や叔父の軽皇子との関係を考え,これを辞退するように勧めた。そんな折り,蘇我入鹿が皇極天皇の後継にとしていた古人大兄皇子は皇位継承の意志がないことを伝え吉野で出家するが,蘇我氏の血を引いていたため謀反を企てたとされ,中大兄皇子が送った兵によって処刑される。649年には義父の蘇我倉山田石川麻呂も自殺させられている。 皇極天皇の後継者は弟の軽皇子と決まり,即位して孝徳天皇となった。そして,孝徳天皇は難波長柄豊碕宮に遷都して政治の改新を勧めるが,皇太子となった中大兄皇子が実質的に政治の中心にたっていたので,天皇は名肩書きでしかなかったのかもしれない。 653年,中大兄皇子は孝徳天皇に難波から大和へ都を遷すことを相談するが,天皇は認めなかった。こうして中大兄皇子と孝徳天皇の間に溝ができていく。そして,中大兄皇子は皇極天皇や弟大海人皇子,妹で天皇の皇后の間人(はしひと)皇女や都の役人らを連れて飛鳥へもどってしまう。孝徳天皇は難波に一人残され寂しく暮らすうちに,皇位を捨てて山背の山崎(京都府乙訓郡大山崎町)に移り住むことを考えるようになる。 「鉗着け 吾が飼う駒は 引出せず 吾が飼う駒を 人見るつらむか」 逃げないようにと首に鉗を付けて飼っていた駒を誰が引き出して見たのか・・・・大切な妻と誰かが会っていた(密通していた。 妻=間人皇女 誰=中大兄皇子 の兄妹で深い関係にあったことに対しての恨みの意味がこもった歌とされる。)
孝徳天皇が亡くなり,中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握ったまま,中大兄皇子の母が再び斉明天皇として即位した(重祚)。 父孝徳天皇がいなくなり,子の有間皇子は次の天皇の候補者として表に出されるようになる。しかし,中大兄皇子の存在は脅威であったろう。日本書紀によると657年9月,18歳の有間皇子は狂人のふりをしたとある。皇子はその治療のため紀伊の牟婁(むろ)の湯にでかけた。 都に戻った有間皇子は斉明天皇に「その場所を見ただけで病気が治る」と牟婁(むろ)の湯のことを報告した。この言葉を聞いた天皇は大変喜んだ。
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護送の途中,磐代(いわしろ-和歌山県南部町)で休息中に歌を詠んだといわれている。
(磐代の松の枝を結んだ 幸いにも無事に帰ることができたらまたこれを見よう)
この事件,蘇我赤兄の裏切りなのか,もともと中大兄皇子が仕組んだものか,真相は謎のままとなっている。 奈良薬師寺東院堂
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*「有間皇子のまつり」画像 藤白神社使用許可済 藤白神社では毎年11月の第2日曜日に「有間皇子のまつり」が開催されている。 *和歌山県 海南市 ホームページ 和歌山県 海南市 歴史・文化 |
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