松塚古墳
 鳥時代の人物や出来事について,中・高生の学習の参考になるようにとも考え,わかりやすくまとめたつもりです。また,古墳時代や尾張の古代史,伝説上の人物などについてもふれています。飛鳥資料館を始め橿原考古学研究所,京都国立博物館,大津歴史博物館など各地の資料館や教育委員会のご協力・ご承諾をいただき,貴重な画像を本サイトでも公開することができました。
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飛鳥の四季

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飛鳥の地図

飛鳥の石造物

飛鳥発掘

飛鳥時代の庶民の建物

石舞台古墳
 ・5世紀,地方の豪族を制圧し大和王権(大和朝廷)が全国を統一しました。6世紀の中頃に日本に仏教が伝わります。この時,都は奈良県の飛鳥に置かれていました。聖徳太子は蘇我氏とともに仏教を広め,大王(天皇)を中心とした国家建設を目指しました。この理想は7世紀になっても継承され,大化の改新や壬申の乱を経て律令国家の完成へとつながっていきます。


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飛鳥京
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年表
仏教の伝来
38年,百済の聖明王から仏像がおくられてきました。天皇は,これをまつるべきかどうか迷っていましたが,大臣の蘇我氏に預けることにしました。蘇我氏はさっそく家に持ち帰り,別邸を寺に造りかえました。やがて,国内に疫病がはやり始め,蘇我氏と対立していた大連の物部氏は「仏などまつったから古来の神々が怒ったのだ」と言って寺を焼き払い,仏像を池に投げ捨ててしまいました。

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聖徳太子
74年,宮で一人の聡明な皇子が誕生します。馬小屋の前で生まれたと伝えられる廐戸皇子,後の聖徳太子です。蘇我氏の血を引く廐戸皇子は,蘇我氏と物部氏との対立の渦に巻き込まれていきました。587年,蘇我氏と物部氏は総力を挙げて戦います。はじめ戦上手な物部軍に押されていた蘇我氏と廐戸皇子連合軍でしたが,廐戸皇子が四天王に祈り,そのご加護もあって勝利します。これで実質的な権力を握った蘇我氏は,推古天皇をたて,その摂政を聖徳太子としました。聖徳太子は603年に冠位十二階を,翌年憲法十七条を出して国の政治を整えていきます。また,仏教を重んじ,遣隋使を派遣して外国とも積極的に交流し,大陸の文化を取り入れるよう努力しました。
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蘇我氏
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渡来人
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飛鳥寺

22年,聖徳太子が亡くなると,蘇我氏は大王と同等,それ以上の力を持つようになりました。蘇我氏は大陸や朝鮮半島からの渡来人たちと深くつながり,新しい知識や技術をいち早く取り入れ,革新的な考えで政治を進めようとしました。

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乙巳の変・大化の改新
の政治の先行きを心配した中臣鎌足は中大兄皇子に蘇我氏打倒の策を相談します。そして,その時がきます。645年6月12日,雨の飛鳥板蓋宮では皇極天皇が朝鮮からの使者と会い,貢ぎ物を受け取ることになっていました。この席に蘇我入鹿もいました。儀式が始まってまもなくして,柱のかげに隠れていた中臣鎌足や中大兄皇子は一気に蘇我入鹿に斬りつけます。「わたしにどんな罪があるというのだ。」と叫んで入鹿は息絶えます。中大兄皇子は皇極天皇に「入鹿は大王一族を滅ぼそうと企てていた。」と説明し,すぐさま甘樫丘の蘇我氏邸を包囲しますが,入鹿の父蝦夷は館に火を放ち自害したため,ここに蘇我氏は滅びます。

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有間皇子の変
号は大化となり,都も難波に移されて新しい政治が始まりました。しかし,孝徳天皇と中大兄皇子が対立し,実質的な実権を握っていた中大兄皇子は一族を連れて難波の都を出て飛鳥にもどってしまいます。孝徳天皇の子有間皇子が謀反の疑いをかけられ処刑されました。

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斉明天皇と道教
鳥では斉明天皇が大規模な土木工事を行って都の整備を進めていました。中でも運河造りは人々から「狂心の渠」とよばれ,非難を浴びました。
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白村江の戦い

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倭国防衛
古代の山城
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大津京


60年,百済から援軍を要請する使いが都にやってきます。百済は唐と新羅に攻められて滅亡寸前になっていました。百済は日本と深く関わりのある国,救援を送るため斉明天皇自ら九州に出かけることになりました。しかし,天皇は急死,援軍も朝鮮半島の白村江で戦いましたが大敗してしまいます。中大兄皇子は直ちに都にもどり国防を強化するとともに,667年には琵琶湖のほとり大津に都を遷し,天智天皇として即位します。

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壬申の乱の舞台を訪ねて


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壬申の乱と竹取物語  

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学習 壬申の乱
(中高生の学習用に整理しました)
69年,それまで側に仕えて天皇を支えていた藤原鎌足が亡くなると,天智天皇と弟の大海人皇子の間に亀裂が入り始めます。天智天皇がそれまでの慣例を破って皇位を子の大友皇子に譲ろうとしていると知った大海人皇子は,「仏の修行をする」と言って都を出て吉野の山に向かいます。この時見送りの従者が言った「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」は,671年末に天智天皇が亡くなってから現実となっていきます。これまで急進的な政治を行ってきた天智天皇に対して地方の豪族たちは大変不満を持っていました。朝廷が吉野の大海人皇子に敵意をもち始めたこともあって,大海人皇子は朝廷と戦うことを決心します。672年,吉野脱出に成功した大海人皇子は美濃・尾張などの東国の兵を集め,関ヶ原から進軍します。これが壬申の乱です。奈良や近江で大海人皇子軍が勝利し,大友皇子は自害します。673年,大海人皇子は飛鳥で即位して天武天皇となりました。これ以降,倭国は「日本」,大王は「天皇」となり,対外的にも天皇を中心とする新しい国ができたことを示していきます。

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壬申の乱の後
    大津皇子と二上山

86年,多くの改革政治を行った天武天皇が亡くなります。この後を子の草壁皇子が継ぐことになっていましたが,もう一人候補者がいます。大津皇子です。しかし,謀反の疑いがあるとされ大津皇子は処刑されてしまいます。そのすぐ後,草壁皇子も病気で亡くなってしまいました。

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藤原京
94年天武天皇の后だった鵜野皇女は持統天皇として即位し,飛鳥に唐の都にならった新しい都の建設を進めます。そして,694年に藤原京が完成し,697年,文武天皇が即位します。701年には大宝律令が出され,ここに天皇を中心とした国家(律令国家)が完成しました。


飛鳥及び大和政権関連
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古代の天皇と宮
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飛鳥関連年表
 
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大友皇子伝説
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