「壬申の乱」の後 | ||
飛鳥の宮 復元模型(「大和の考古学」奈良県立橿原考古学博物館発行より 許可済) |
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673年2月 都は飛鳥へ |
672年7月23日,大海人皇子の勝利によって大津京は滅んだ。大海人皇子は皇后の鵜野讃良皇女や皇子たちとともに9月8日に不破関(関ヶ原)を離れた。飛鳥には9月12日に島宮に到着し,15日に岡本宮に入った。 673年2月27日,飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で天武天皇が即位する。 「大君は神にしませば」と万葉集に歌がある。 大君は神であるから・・・・という意味で,大王(天皇を)神格化している。 大君は神にしませば赤駒の匍匐(はらば)ふ田井を都となしつ (作 大伴御行) 「天皇」は天武天皇が初めて使った称号で,中国思想では天の中心にある北極星を神格化したものとされている。ここに天皇は大王ではなく神であるという最高の権威が誕生した。 同時に「日本」も誕生した。これまでの倭国ではなく,太陽の下にあるというような意味で日本という国号は生まれた。 明日香池遺跡で発見された木簡に「天皇聚□〔露ヵ〕弘寅□」の文字が見える。 飛鳥の宮 |
飛鳥浄御原宮跡とされる飛鳥板蓋宮伝承地 |
飛鳥京跡苑池イメージ図 (奈良県立橿原考古学研究所許可済) |
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皇親(こうしん)政治 | 天武天皇が行った政治は親政だった。天智天皇と同じように中央集権国家を目指した。そして,太政大臣などを任命せず,朝廷の上級役には大津皇子や草壁皇子などの天皇の子や天智天皇の子らを任命した。このように天皇家を重要視する政治を皇親(こうしん)政治という。 |
万葉の石橋(明日香村) |
676年 天武天皇の政治 1 |
①官僚制の見直しをし,家柄ではなく,勤務評定をして才能を重視した昇進制度の整備を進めた。 ②官人に食封(じきふ)を支給した。 |
飛鳥石はこの地方独特の石で古墳に使われている(岩屋山古墳内) |
679年5月 吉野の誓約 |
天武天皇は高市皇子,大津皇子,草壁皇子と天智天皇の子の川嶋皇子,施基(しき)皇子,皇后の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ-持統天皇)らを連れて吉野へ行幸した。天武天皇は6人の皇子たちに,戦いをせぬよう力を合わせて世の中を治めることを約束させた。そして,皇子等を抱きしめて,「母は違うが同じ母の子として慈しむ」と言った。このようにして,皇位継承のための争いを起こさないように誓約させた。 (注 鵜は正しくは盧と鳥を合わせた字) |
吉野川 |
680年4月 天武天皇の政治 2 |
③官寺の制を定めた 官の大寺は次の4寺 ・大官大寺 ・飛鳥寺 ・川原寺 ・薬師寺(本薬師寺) |
大官大寺跡(奈良県高市郡明日香村) |
余談 本薬師寺 |
本薬師寺(もとやくしじ)は680年に創建された。天武天皇が皇后の病気治癒のために発願したことに始まる。 | 本薬師寺跡(奈良県橿原市城殿町) |
681年 天武天皇の政治 3 |
⑤国史(「古事記」「日本書紀)の編纂を行わせた。天武の子の舎人親王(とねりしんのう)が中心となって編集した日本最古の歴史書。神代から持統天皇の時代までの出来事が漢文で書かれている。 天武天皇と鵜野讃良皇女との間の子,草壁皇子を皇太子とした。 |
川原寺跡(現弘福寺くふくじ)(奈良県高市郡明日香村) |
683年 天武天皇の政治 4 |
この年より大津皇子(21歳)が政治に参加(朝政を聴く) ⑥銅銭(冨本銭)使用令を出した。 ⑦国境を定めた。 |
飛鳥歴史公園祝戸地区より飛鳥を見る |
684年 天武天皇の政治 5 |
⑧「政の要は軍事」とし,畿内の官人に武器と馬を備えさせた。 ⑨八草の姓(やくさのかばね)を定めた。 真人(まひと),朝臣(あそみ),宿禰(すくね),忌寸(いみき),道師(みちのし),臣(おみ),連(むらじ),稲置(いなぎ) 上位4位が上級位とされた。 |
飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村) |
685年 天武天皇の政治 5 |
⑩冠位60階の公布。支配者層に冠位を授与した。 |
甘樫の丘より飛鳥を見る |
686年 天武天皇の病重く |
天武天皇の病気が治ることを願って,道明上人が銅板法華説想図を安置した。これがぼたんで有名な長谷寺の起こり。銅板が安置してあったところを本長谷寺と称している。銅板法華説想図は奈良国立博物館に国宝として展示されている。 また,年号を「朱鳥(あかみとり)」と改元した。 |
本長谷寺(奈良県桜井市初瀬) |
686年9月 天武天皇没する |
9日,全権を草壁皇子と鵜野讃良皇女に任せ世を去った。病死であったが,草薙剣(くさなぎのつるぎ)のたたりともいわれ,宮中の草薙剣を熱田神宮(名古屋市熱田区)へ返している。 鵜野讃良皇女が政治の実権を握る。(皇后称制) 殯(もがり)が2年2ヶ月続き,檜隈の陵に移されたのは688年11月だった。 |
天武持統天皇陵(奈良県高市郡明日香村) |
余談 草薙剣と不開門 |
草薙剣は熱田神宮にて祀られていた神器で,668年に盗み出されてしまったらしい。それがなぜか宮中にあり,このたたりによって天皇は病死したという。そこで,686年,持統天皇はこの剣を返した。熱田神宮では再びこの剣が外に出ることがないよう門を閉ざしてしまった。現在この門は清雪門とよび,不開門(あかずのもん)ともいう。 | 熱田神宮の清雪門 (名古屋市熱田区) |
686年10月 仕組まれた大津皇子謀反 |
2日,体格がよく,文武に優れ,人々から信望の厚かった大津皇子だったが,謀反の疑いをかけられ捕らえられた。(大津皇子が信頼していた川島皇子が密告した) 3日,大津皇子は24歳で処刑された。鵜野讃良皇女が自分の実の子の草壁皇子を次の天皇にするためにはかったとも言われるが不明。 大津皇子の妻の山辺皇女は処刑のことを知り,裸足で髪をふり乱して駆けつけ殉死した。 大津皇子の歌 「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」 |
磐余の池(吉備池)と大津皇子の歌碑 |
余談 訳語田幸玉宮跡(おさださきたまのみや) |
敏達天皇が百済の宮(候補地:奈良県北葛城郡広陵町百済)宮のあとに新たに訳語田に宮をつくった。これを幸王宮(さきたまのみや)という。 大津皇子の家があったのがこの訳語田(おさだ)であった。 磐余の池のほとりで涙を流しながら歌を詠んだ大津皇子は家に帰って死ぬ。 現在は春日神社が建っている。境内には訳語田幸玉宮跡の碑がたつ。 |
大津皇子の家があった所 (春日神社:奈良県桜井市戒重) |
余談 大津皇子の墓 |
大津皇子は二上山に葬られた。 二上山は「にじょうざん」「ふたかみやま」とも呼ばれ,雄岳(517m)と雌岳(474.2m)からなる火山。ここのサヌカイトは石器の材料となった。また,ここから切り出された凝灰岩は高松塚古墳などの石棺に使われている。 姉の大伯皇女の歌 「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」 |
大津皇子の墓(二上山 雄岳頂上付近) |
余談 天武天皇社 |
天武天皇が桑名郡家に宿泊していたことにより,後の世に建てられた神社。 | 天武天皇社(三重県桑名市) |
余談 御霊神社 |
滋賀県大津市,瀬田の戦いが行われた場所近くに御霊神社が立つ。祭神は大友皇子。 | 御霊神社 |
余談 束明神(つかみょうじん)古墳 |
大津皇子が処刑されて3年経った。689年4月13日,天武天皇と持統天皇との子で皇太子の草壁皇子が天皇として即位することなく病死,28歳だった。 母の悲しみは深かったであろう。 万葉集に草壁皇子が佐田の丘陵に葬られたとあり,こ春日神社境内にある束明神古墳が有力視されている。墳丘は対角線30mの八角形で,天武期の古墳の特徴を示している。発掘調査では青年期から壮年期の男性らしい歯6本が発見された。この古墳近くに岡宮天皇真弓陵があり,宮内庁はここを草壁陵としている。 |
束明神古墳(奈良県高市郡高取町佐田) |
690年 持統朝成立 694年 藤原京に遷都 |
天武天皇の直接的な血をひく我が子草壁皇子の死は深く悲しかった。しかし,草壁皇子の子である軽皇子(かるのみこ)はこの時まだ7歳の幼さであった。天皇となるにはあまりに若すぎた。そのため,軽皇子が成人するまで自分が天皇となって国を治めることにした。 鵜野讃良皇女は浄御原令(きよみはらりょう)を出す。また,庚寅年籍(こういんねんじゃく)という戸籍を作成する。 そして,女帝持統天皇として690年飛鳥浄御原で正式に即位し,694年12月に,かねてより建設中だった藤原京に都を移した。 ここは畝傍山,耳成山,香具山に囲まれた所で,中国の都にならって大きな都が造られた。 |
藤原京跡(奈良県橿原市高殿町) |
697年2月 文武天皇 が即位 |
天智天皇,天武天皇に続き,天皇中心の政治をすすめた持統天皇,697年2月に太上天皇(上皇)となって位を草壁皇子の子,15歳の軽皇子に譲った。軽皇子は文武(もんむ)天皇として即位した。 701年には大宝律令が出され,天皇中心の集権国家が完成した。 |
藤原京復元模型(クリックで拡大)(飛鳥資料館提供) |
余談 夏見廃寺 |
天武天皇と大田皇女(天智天皇の娘,持統天皇の姉)との子に大来皇女がいる。天皇の代わりに伊勢神宮にお参りする斎王として13歳から26歳まで13年間を斎宮で仕えた。694年,父の菩提を弔うために名張に昌福寺を建てた。夏見廃寺がその昌福寺跡とされ,金堂,講堂,三重塔からなる立派な寺院であったことが発掘調査からわかっている。須弥壇が発掘され,「甲午年」の文字があったことから、夏見廃寺の金堂は694年(藤原京遷都)頃建立されたことがわかった。 |
夏見廃寺(三重県名張市夏見) |
余談 「キトラ古墳のなぞを解く」 |
高松塚古墳は鎌倉時代に石室の石壁を壊されて盗掘されている。そのためその壁に描かれていた朱雀は一部しか見られない。しかし、キトラ古墳は玄武・白虎・青龍と朱雀の4神獣がそろっている。朱雀(朱雀の絵)は他の3神獣より線も色もはっきりとしており美しい。 高松塚古墳の講演会に参加した時興味ある話を聞いた。右のように天智陵・藤原京・天武・持統陵・高松塚古墳・キトラ古墳が東経135°48′上にのるという。 このことから,高松塚古墳やキトラ古墳の被葬者はこの時代の皇族-皇子クラスの人物ではなかったかと想像できる。有力な渡来人の墓とする説もあるが、天皇家の陵墓がある地域に家臣の墓は造られないであろう。大津皇子か高市皇子か、天武天皇には多くの皇子がいたのでその中の一人であろう。 高松塚古墳やキトラ古墳の美しい壁画を描いた人物は当時の絵師で黄文連本実(きぶみのむらじほんじつ)の名があげられている。彼は中国に渡り絵画を学んで帰国したのち、宮に仕える絵師となった。石室内の四方を守る四神の絵を見ると確かにタッチが似ている。また、高松塚の白虎の絵を反転させるとキトラの白虎に重なるようにも見える。絵画技法から判断するとキトラ古墳の方が高松塚古墳より早く築造されていると推測されるそうである。 キトラ古墳で出土した被葬者とみられる人骨や歯について,頭がい骨の破片や歯のすり減り具合から文化庁は「40―50代の男性」と発表した。このことからキトラ古墳の被葬者は高市皇子が最有力視されている。 |
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高松塚古墳(明日香村平田) |
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キトラ古墳(明日香村阿部山) (現在は古墳の前に保存研究施設が建っている) |
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