藤原京
天武天皇のあと,690年,飛鳥浄御原で持統天皇が即位する。 694年,かねてより建設中だった藤原京に都を移した。ここは畝傍山,耳成山,香具山に囲まれた平野で,唐(中国の都)にならって,それまで見られない大きな都が造られた。 |
藤原京復元図(飛鳥資料館掲載許可)
藤原京発掘 128次
藤原宮発掘 125次
藤原京跡360度展望(QuickTime movie)
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天武天皇の後,皇位継承の有力候補だった大津皇子は謀反の疑い有りとして処刑された。689年,天武天皇と持統の子で皇太子となっていた草壁皇子が28歳という若さで病死したが,これは持統の誤算であった。天武天皇の子で皇位継承候補は他にもいる。しかし,持統は草壁皇子の子軽皇子(かるのみこ)に皇位を継がせようと考えた。しかし,軽皇子はまだ7歳だった。そこで,自ら中継ぎ役として即位した。 天智天皇,天武天皇に続き,天皇中心の政治をすすめた持統天皇は689年に飛鳥浄御原令を出して律令体制を整えていった。690年には庚寅年籍(こういんねんじゃく)を出し,6年ごとに戸籍を作成し,班田を行った。 |
大宮土檀(藤原京の大極殿跡) |
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大極殿跡を北から見る |
694年,持統天皇は天武時代より建設中であった藤原京に遷都した。 藤原京は唐の都にならったつくりで,この中心にあるのが藤原宮,礎石の上に朱塗りの柱を立てた最古の宮殿とされる。ここには天皇の住居である内裏や大極殿,朝堂院,多くの役所などの建物があった。藤原宮は瓦屋根の大垣が四方を囲んでおり,宮域を他と区別していた。四辺の大垣にはそれぞれ3つ,合計12の門があった。大垣の両側に濠(ほり)があり,排水溝を兼ねていた。宮域は東西約925m,南北約907mであった。 藤原宮の外側に住居や寺院が建つ京域が存在していた。その範囲は平城京規模をこえるものとされる。 |
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藤原京の真ん中に,メインストリートとなる朱雀大路があった。都の中で最も広い道路で,発掘調査の結果,幅19m,西側に4mの側溝があったとされている。 | 朱雀大路跡 南に延びる |
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朱雀大路跡 北を見る |
ここから200m先に朱雀門があった。 南に1.5㎞の所に羅生門があった。 |
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大極殿は藤原京の中心となる建物で,それを囲む,東西115m,南北155mの範囲を大極殿院という。大極殿院の南の中央に朝堂院につながる門があった。この門は「大極殿院閤門(だいごくでんいんこうもん)」と呼ばれている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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門の規模は,正面約30m,側面約15mだったと推測されている。写真の発掘場所に門があった。ここより南に30mの位置に柱が復元されている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
2007年4月から半年間,奈良文化財研究所が,この門の調査を行った。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
持統天皇は697年に太上(だいじょう)天皇(上皇)となって位を15歳の軽皇子(文武天皇)に譲った。持統天皇の即位は文武天皇が即位するまでの中継ぎであったと考えてもよいであろうが,持統天皇は退位しても実権を握っており,持統太上天皇と文武天皇の共同体制によって急速に律令制度が整えられていく。 | 東に香具山を見る |
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北に耳成山を見る |
軽皇子が文武天皇として即位する時,大友皇子(弘文天皇)の子,葛野王(かどのおう)の助言があったとされる。葛野王は持統天皇に対して,内乱が起きぬようにするためには,皇位継承は兄弟間ではなく直系であるべきと説いた。若き皇子の即位に反対する者もいたであろうが,持統天皇の力でそれらを抑え,葛野王の進言通りに直系継承が続いていく。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
藤原鎌足の長男定慧(じょうえ)は出家していたので,藤原家の後を継いだのは次男の不比等(ふひと)だった。持統朝の下で重要な立場にいた不比等は 刑部親王(おさかべしんのう)とともに,701年,大宝律令を完成させた。唐の律令を手本にして作られた大宝律令は,長く後の世の政治にも影響を与えていった。(律=刑法,令=租税・労役・行政組織・役人の仕事など)この特徴は官僚機構にある。中央に神祇官と太政官の二官と大蔵省,宮内省,中務省など八省,地方に国(国司)・郡(郡司)・里(里長)を置いた。 こうして,天皇中心の集権国家がここに完成した。 藤原京は694年から710年までの,持統天皇,文武天皇,元明天皇の三代にわたる都となった。 |
南を見る |
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律令官制図
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その後 | |||||||||||||||||||||||||||||||
大宝律令が出た後,702年,持統天皇はこの世を去る。後を追うかのように707年に文武天皇が25歳で亡くなる。 この時,皇位継承に関わるほどの力を持っていた藤原不比等は自分の子藤原宮子と文武天皇との間に生まれた首皇子(おびとのみこ)に皇位を継承させようとした。しかし,首皇子はまだ7歳,そこで,文武天皇の母が元明天皇となって即位した。 710年,元明天皇は平城京に遷都する。715年,首皇子が14歳の時には皇位を子の氷高皇女に譲り,元正天皇が即位する。 首皇子が24歳になると元正天皇は皇位を首皇子に譲り,聖武天皇が誕生する。不比等は聖武天皇に娘の光明子(こうみょうし)を妃とし,朝廷内の実権を確固たるものにした。(この力は子の4兄弟にも受け継がれていく)そして,718年,今度は自分が中心となって,養老律令を出すが,内容は大宝律令とあまり変わらなかった。 |
文武天皇陵(奈良県高市郡明日香村) |
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