秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。 |
広隆寺(京都市右京区太秦)
聖徳太子の時代,新羅より仏像が贈られたので,これを秦河勝に授けた。河勝はその仏像を本尊とする寺を山背(やましろ)につくった。この寺が京都の広隆寺で,半跏思惟像(はんかしいぞう)の弥勒菩薩像が聖徳太子が授けた仏像とされる。広隆寺は603年(推古天皇11年)に創建された寺で,秦公(はたのきみ) 寺,蜂岡寺,太秦寺などいくつかのよびかたがある。 |
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秦楽寺(奈良県田原本町)
秦楽寺(じんらくじ)は秦河勝が647年に建てたと伝えられる。中国風の土蔵門をくぐると本堂と梵字の「阿」の字をかたどった池の前に出る。秦楽寺の「楽」は猿楽・神楽からとっていると聞く。この付近にはこれらの芸に秀でた人たちが住んでいたのだろう。この寺のある辺りはもともと秦氏の居住地で,今でも「字秦庄」の地名や「秦」の表札のかかる家を見ることができる。 |
松尾大社
(京都府京都市西京区嵐山宮町) |
秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を御神体として,701年(大宝元年)に創建したいわれている。社の由緒書によれば,「太古この地方一帯に住んでいた住民が,松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って,生活の守護神として尊崇した」とあるので,松尾大社の前身となる場がこの地域にあったと言える。朝鮮半島より渡来してこの地に居住した秦氏は松尾山の山霊を現在の社地に遷し,これを総氏神として仰いだ。そして,新しい文化・技術をつかってこの地方一帯を開拓していった
。平安京に遷都した後は都城を鎮護する神として崇められた。 松尾大社はお酒の神様として全国に知られている。また,中津島姫命は市杵島姫命(いつきしまひめのみこと:伊都岐島神)の別名で,市杵島姫命は厳島神社の祭神でもある。(厳島神社の祭神は市杵島姫命,田心姫命(たごりひめのみこと),湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神)。 |
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農業用水を確保するため,秦氏は桂川(京都嵐山)の水をせき止めて水路に流し込むための堰(せき)を築造した。京都嵐山にある渡月橋付近の葛野大堰(かどのおおぜき)に現在の姿をみることができる。 |
葛野大堰(かどのおおぜき) |
現京都太秦地区を拠点としていた秦氏に関係のある神社として,「天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)」ほか3神を祀った木島(このしま)神社がある。正しくは木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社であるが,境内地にある摂社養蚕(こがい)神社から通称蚕の社(かいこのやしろ)と呼ばれている。秦氏が養蚕や機織りの技術を広めたことからここに祀られている。 ここには日本で唯一の三柱の鳥居がある。どのような意味を持つのかは不明だが,キリスト教との関わりがあるという説もある。 |
木島神社(京都市太秦森ケ東町)
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また,太秦周辺には蛇塚古墳や天塚古墳など秦氏と関係がある古墳がある。 |
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蛇塚古墳は7世紀頃造られた全長75mの前方後円墳だったが,現在は後円部を覆っていた土もなくなり,露出した石室が住宅地の真ん中に残っているのみ。その規模からこの一帯をおさめていた首長の墓であろうと考えられている。以前は蛇がたくさん住み着いていたことからこの名前が付けられた。 |
蛇塚古墳(京都市右京区太秦面影町) |
天塚古墳は6世紀前半に造られた古墳で全長70mの前方後円墳。後円部に2つの石室があり,中に伯清稲荷大神の祭壇が置かれている。管理をされているかたに声をかけて照明をつけていただくと内部がよく見える。 |
天塚古墳(京都市右京区太秦松本町) |