渡来人

代の日本には朝鮮半島から土器製作,農工技術,土木技術,養蚕,機織り,漢字,仏教,医学などの新しい文化や技術を持って多くの人たちが渡来してきた。「渡来人」(以前は「帰化人」と記載することもあった)と呼んでいるが,実はわたしたち日本人の祖先でもある。彼らから伝えられた技術や知識によって,それまでの人々の生活が大きく変化し,また,政治の中心地である都もつくられていった。

初の渡来人たちは,紀元前にさかのぼるが,日本(九州を中心として)に米作りや土器などを伝えた人たちと考えられる。日本書紀・古事記が伝えるところによると,応神天皇期が最初の大規模な渡来とされているが,このころ朝鮮半島では大きな動乱が起きていた。それから逃げるように日本に渡来し,製鉄の技術や鉄製の農具,灌漑(かんがい)技術などを伝えた人たちがいた。かれらがもたらした道具や技術によって,それまでの生産方法や労働形態を一変させる一大改革が起こったのではないだろうか。また,馬や馬具ももたらされ,乗馬も行われるようになった。この後続く渡来人たちによって,政治にも影響を与えるような知識や文化,技術がもたらされた。7世紀には,白村江の戦いで敗れた百済からの亡命者たちが入ってきた。かれらもそれまでの日本にはない最新の技術や文化を伝えたり,朝廷の政治に大きく関わったりした。渡来人の持ち込んだ技術や文化によって当時の日本(倭国)は高度に発展したと言える。
渡来時期を4つに区分すると・・・
  Ⅰ 紀元前2~3世紀 弥生時代に日本に定住した。
  Ⅱ 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
  Ⅲ 5世紀後半~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
  Ⅳ 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。

・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。

秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。
 
広隆寺(京都市右京区太秦)
 聖徳太子の時代,新羅より仏像が贈られたので,これを秦河勝に授けた。河勝はその仏像を本尊とする寺を山背(やましろ)につくった。この寺が京都の広隆寺で,半跏思惟像(はんかしいぞう)の弥勒菩薩像が聖徳太子が授けた仏像とされる。広隆寺は603年(推古天皇11年)に創建された寺で,秦公(はたのきみ) 寺,蜂岡寺,太秦寺などいくつかのよびかたがある。
 
秦楽寺(奈良県田原本町)
 秦楽寺(じんらくじ)は秦河勝が647年に建てたと伝えられる。中国風の土蔵門をくぐると本堂と梵字の「阿」の字をかたどった池の前に出る。秦楽寺の「楽」は猿楽・神楽からとっていると聞く。この付近にはこれらの芸に秀でた人たちが住んでいたのだろう。この寺のある辺りはもともと秦氏の居住地で,今でも「字秦庄」の地名や「秦」の表札のかかる家を見ることができる。


松尾大社
(京都府京都市西京区嵐山宮町)
 秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を御神体として,701年(大宝元年)に創建したいわれている。社の由緒書によれば,「太古この地方一帯に住んでいた住民が,松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って,生活の守護神として尊崇した」とあるので,松尾大社の前身となる場がこの地域にあったと言える。朝鮮半島より渡来してこの地に居住した秦氏は松尾山の山霊を現在の社地に遷し,これを総氏神として仰いだ。そして,新しい文化・技術をつかってこの地方一帯を開拓していった 。平安京に遷都した後は都城を鎮護する神として崇められた。 松尾大社はお酒の神様として全国に知られている。また,中津島姫命は市杵島姫命(いつきしまひめのみこと:伊都岐島神)の別名で,市杵島姫命は厳島神社の祭神でもある。(厳島神社の祭神は市杵島姫命,田心姫命(たごりひめのみこと),湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神)。
 農業用水を確保するため,秦氏は桂川(京都嵐山)の水をせき止めて水路に流し込むための堰(せき)を築造した。京都嵐山にある渡月橋付近の葛野大堰(かどのおおぜき)に現在の姿をみることができる。

葛野大堰(かどのおおぜき)
 現京都太秦地区を拠点としていた秦氏に関係のある神社として,「天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)」ほか3神を祀った木島(このしま)神社がある。正しくは木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社であるが,境内地にある摂社養蚕(こがい)神社から通称蚕の社(かいこのやしろ)と呼ばれている。秦氏が養蚕や機織りの技術を広めたことからここに祀られている。 ここには日本で唯一の三柱の鳥居がある。どのような意味を持つのかは不明だが,キリスト教との関わりがあるという説もある。           
 
木島神社(京都市太秦森ケ東町)
 また,太秦周辺には蛇塚古墳や天塚古墳など秦氏と関係がある古墳がある。
 蛇塚古墳は7世紀頃造られた全長75mの前方後円墳だったが,現在は後円部を覆っていた土もなくなり,露出した石室が住宅地の真ん中に残っているのみ。その規模からこの一帯をおさめていた首長の墓であろうと考えられている。以前は蛇がたくさん住み着いていたことからこの名前が付けられた。


蛇塚古墳(京都市右京区太秦面影町)
 天塚古墳は6世紀前半に造られた古墳で全長70mの前方後円墳。後円部に2つの石室があり,中に伯清稲荷大神の祭壇が置かれている。管理をされているかたに声をかけて照明をつけていただくと内部がよく見える。
 
天塚古墳(京都市右京区太秦松本町)

東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。
平安時代になると,東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではない。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので,互いに対抗意識をもっていたのかもしれない。

阿智神社(岡山県倉敷市本町)

磐境の鶴石,亀石
(本殿横にある石組み)
 4世紀,応神天皇の時代,社記によると岡山県倉敷一帯(倉敷市の美観地区)は阿知潟あるいは吉備の穴海と呼ばれていて,その中の小島(内亀島,現在の鶴形山)に漁民が社殿を奉祀したのが阿智神社とされている。東漢氏の祖である阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が漢人を率いて帰化し,一部がここに定住した。帰化するにあたって帰属意識を明らかにするために,日本古来から伝わる盤座(神が岩に宿る思想)や磐境を設けたとされる。この思想に中国の神仙思想が導入された。盤座は日本庭園の石組みの起源をさぐる貴重な存在とも言われている。
 
桧隈(ひのくま)寺跡(明日香村)
於美阿志(おみあし)神社の境内に礎石が残る
於美阿志(おみあし)神社(明日香村)
阿知使主を祀る

明日香村稲淵の棚田(初夏)-渡来人が開墾したと言われている


明日香 稲淵地区に龍福寺がある。ここにある石塔は,原形を止めてはいないが,もとは朝鮮式の五重の石塔(日本最古の銘文入り層塔)と思われる。台の部分には「天平勝宝三年(751年)」「竹野王」の文字が彫られている。この地域が渡来人と深く関わっていたことがわかる。


5世紀後半頃,今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述がある。東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)鞍作(くらつくり)金作(かなつくり)の諸氏を配下にし,製鉄,武器生産,機織りなどを行った。蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていった。


桧隈から多武峰方向を見る(秋)

高松塚古墳

キトラ古墳
高松塚古墳やキトラ古墳はともに桧隈の地にある。被葬者の解明はされていないが,渡来人と深く関係する古墳とみてもよいであろう。(現在,高松塚古墳内部に発生したカビの除去と防止策が検討され,改善されつつある。また,キトラ古墳の前に調査施設が建築され,写真のような姿を見ることはできない。)

西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で,古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え,日本に文字をもたらしたとされる。西文氏は河内を本拠地として,文筆や出納などで朝廷に仕えていた。
 
西琳寺(大阪府羽曳野市古市)
欽明天皇の頃,西文氏が建てた。法起寺式の伽藍配置で舎利孔と添柱穴のある塔心礎が境内に残っている。

7~9世紀にも多くの渡来人が日本に来ている。
白村江の戦いのあと,百済から多くの渡来人が亡命してきた。その中には百済・新羅の役職をもって渡来した氏族もおり,子孫らは奈良や琵琶湖周辺に多く居住した。さらに,唐から遣唐使とともに来た渡来人たちもいて,朝廷の政治に大きく関わる者もいた。
日本書紀に「余自信・鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」(天智8年(669年))という記述がある。鬼室集斯(きしつしゅうし)は白村江の戦いで活躍した百済の将軍鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭にまでなっている。彼らをこの地に移住させ,荒れ地の開墾をさせたのではないかと考えられている。
鬼室神社(滋賀県日野町小野)
大津に宮があった頃,百済からきた渡来人に鬼室集斯(きしつしゅうし)がいる。鬼室神社境内には墓碑が祀られた石の祠(円内)がある。
滋賀県八日市市の田園風景
蒲生はもとは荒れ地だったが,多くの渡来人たちが居住し,このあたりの開墾を行った。今でも米作りがさかんに行われている。

石塔寺(いしどうじ) 滋賀県蒲生町
聖徳太子の創建で日本最大で最古の石塔(三重石塔-阿育王(あしょかおう)塔)がある。
百済寺(ひゃくさいじ) 滋賀県愛東町
聖徳太子の創建。高句麗の僧・恵慈(えじ)と百済の僧・道欽(どうきん)のために建てられたとされる。
琵琶湖東部の滋賀県八日市市や蒲生郡には多くの渡来人たちが住んでいた。彼らの技術や労力によってここにある寺院も建設されたと考えられる。

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