「大化改新」 | ||
国内の情勢
(* 聖徳太子のページと一部重複)
大和の豪族 |
大和王権下において,有力な豪族たちの集団を「氏:うじ」といい,「氏上:うじがみ」(一族の首長的地位)を中心としてまとまっていた。また,氏上は大和王権の構成員であり,それぞれの地位応じて「臣:おみ」「連:むらじ」「宿禰:すくね」「造:みやっこ」というような「姓:かばね」を授けられていた。これを「氏姓制度」という。「姓」の中でも特に,「臣:おみ」「連:むらじ」を賜(たまわ)った豪族は大和王権の中心部にいた。葛城(かずらぎ),平群(へぐり),巨勢(こせ),蘇我(そが),大伴(おおとも),物部(もののべ)などは大和王権における有力な豪族だった。そして,最も力のある豪族には「大臣:おおおみ」と「大連:おおむらじ」という位を授けられていた。軍事や裁判を担当していたのが「大連」の物部氏(物部尾輿:おこし),財政や外交を担当していたのが「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目:いなめ)だった。 |
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仏教伝来 |
538年(552年説もある),百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まり。天皇は礼拝すべきかを臣下たちに問うと,大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきと蘇我稲目が答えたのに対して,物部尾輿や中臣鎌子らは外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと言った。そこで天皇は試しに拝んでみるようにとこれらを蘇我稲目に授けた。稲目は小墾田の自宅に安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺とした。この時より向原の家は日本最初の寺となった。 |
向原寺(向原家・豊浦宮・豊浦寺跡) |
物部尾輿が仏像を投げ捨てた池と伝わるのが難波池。当時ここは難波の堀江とよばれていた。 投げ捨てられて池に沈んでいた仏像は信濃の国から都に来て,この池の前をたまたま通りかかった本田善光(ほんだよしみつ)という人物によって発見される。 長野の善光寺縁起によると,仏像は聖徳太子の祈りに一度だけ水面に現れたが再び底に沈んだままとなっていた。しかし,本田善光が池の前に来ると,金色の姿を現し,善光こそ百済の聖明王の生まれ変わりであると告げる。善光はこの仏像を背負い信濃にもどり自宅に祀った。これは善光寺の創建に関わる話である。 |
難波池 |
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蘇我馬子 |
584年,百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)を持ってもどってきた。馬子は仏殿を建ててそれを収めた。敏達(びだつ)天皇が崇仏に同意したことが,蘇我氏対物部氏の対立を再び激化させる。 |
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蘇我馬子 | 588年,馬子は「仏教」を広めるため飛鳥寺を建て,ここを拠点とした。 現在の飛鳥寺は本堂が残されているのみだが, 当時は,東西210m,南北320m,塔の高さ40m,3つの金堂を持つ大寺院だった。 寺には蘇我氏の時代に作られた国産の飛鳥大仏(止利仏師-鞍作止利が作った)がある。 瓦ののった寺院(当時は板やワラの屋根),光り輝く仏像は大陸の華やかな文化を映し出していた。 馬子は先進文化の仏教を基盤として廐戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)とともに国造りを行っていこうとした。 |
飛鳥寺-蘇我氏が建てた日本最初の仏教寺院 |
飛鳥大仏(飛鳥寺-安居院の画像使用許可済) |
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聖徳太子 |
592年,蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ,蘇我稲目の孫にあたり,敏達(びだつ)天皇の妃であった炊屋姫(かしきやひめ)を推古天皇とした。(推古天皇の宮は最初,豊浦宮:とゆらのみや,後に小墾田宮:おはりだのみやに移る)そして,推古天皇の甥(おい)の聖徳太子が摂政となり,政治を行った。ここに,推古天皇,聖徳太子,蘇我馬子という蘇我氏の血族による権力集中の政治体制が確立した。 |
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東アジアの情勢
中 国 |
618年隋から唐(618年~907年)に変わった。 |
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朝鮮半島 |
百済 641年 義慈王が権力を握る。 |
蘇我氏の権力
天皇 |
年 月 |
出 来 事 | |
舒 |
630年 |
・第1回遣唐使(犬上御田鍬:いぬがみのみたすき 他) |
南淵請安の墓(奈良県高市郡明日香村) |
632年 |
・犬上御田鍬が僧旻(みん)を伴って帰国 |
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皇 |
640年 |
・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・高向玄理(たかむこのくろまろ)等が帰国 |
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642年 |
・蘇我入鹿(そがのいるか)が国政の中心人物となる。 |
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643年 |
・蘇我入鹿が山背大兄皇子(やましろおおえのおうじ)を殺害 |
父・蘇我蝦夷 |
皇極天皇の時代,蘇我蝦夷(えみし),蘇我入鹿(いるか)父子が朝廷での実権を握った。蝦夷は遣唐使を何度も派遣し,海外の文化を積極的に導入しようとした。 大陸から遣唐使として唐で学び帰国した者たちの中には私塾を開く者もいて,そこに豪族たちの子弟が通って大陸の文化や知識を学んだ。入鹿はそこで学ぶ1人で,同塾生として中臣鎌足がいた。 643年,入鹿は「大臣(おおおみ)-紫の最高位」となり,外交・財政を一手に担うことになる。 東アジアの情勢を知った入鹿は,これまでの日本と百済との関係を見直し,新羅や高句麗とも同じように国交を結ぶ政策(等距離外交)へと転換する。さらに,この政策に反対した聖徳太子の子で次期天皇候補の山背皇子(やましろのおうじ)を襲撃し殺した。これにより,聖徳太子一族が滅び,益々権力が強大なものとなった。 |
蘇我氏の館があった甘橿(あまかしの)丘 |
644年11月,蘇我蝦夷・入鹿は甘橿(あまかし)丘にそれぞれ居を構えた。蝦夷の邸宅は「上の宮門(みかど)」,入鹿の邸宅は「谷(はざま)の宮門」とよんだ。甘橿丘からは都を見下ろすようになり,天皇の住居も眼下に位置する。 家の周りには柵がめぐらされ,火災に備えて水槽も置かれていた。門には武器庫があり,常時護衛が警護していた。まるで要塞のような邸宅だった。 |
甘橿丘から東(真神原:まかみがはら)を見る 入鹿の邸宅からは飛鳥の都,内裏までも眼下に見る。蘇我氏の権力がいかに大きかったかがわかる。 |
中臣鎌足の作戦(談合)
中臣鎌足 |
中流豪族の中臣氏は,代々神官を務める職にあった。蘇我氏×物部氏の戦いでは物部氏について戦い,蘇我氏に滅ぼされている。 |
鎌足誕生地(奈良県) |
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入鹿暗殺の準備と作戦 |
★作戦 その1
★作戦 その2 |
飛鳥寺西の門があった辺り
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乙巳の変 (蘇我入鹿の暗殺)
天皇 |
年 月 |
出 来 事 |
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皇極天皇 |
645年 |
事件:蘇我入鹿の暗殺(乙巳の変:いっしのへん) |
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宮での事態を知った入鹿の父蝦夷は甘橿丘の邸宅にたてこもった。ここに蘇我氏と関係の深い東漢氏(やまとのあやうじ)の兵達も集結した。 |
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気都和既(きつわき)神社 中臣鎌足は暗殺した蘇我入鹿の首に追われて談山神社の方へ逃げた。ここまで来れば「もう来ぬだろう」と言ったことから気都和既のある一帯の山を『もうこの森』と呼んでいる。 |
気都和既神社 (奈良県明日香村大字上) |
大化改新
*以下の一連の改革を「大化改新」(「大化の改新」)という
孝 |
645年 |
・年号を「大化」と改める。 |
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・新政権の発足 |
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9月 |
・古人大兄皇子を謀反の罪で処刑 |
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12月 |
・都の遷都 |
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646年 |
・「改新の詔」を出す |
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改新の詔(みことのり) |
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解説 |
第1条 |
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第2条 |
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第3条 |
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第4条 |
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3月 |
・身分によって墳墓の大きさを規定する。 |
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8月 |
・渡来人は「品部(しなべ)」として組織されていたがこれを廃止(新しい冠位・官職を授けることとする) |
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647年 |
・7色13階の冠位を制定する。 |
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648年 |
・磐舟柵(いわふねのさく-新潟県村上市付近)をつくる |
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649年 |
・冠位19階を制定する。また,八省百官を置く。 |
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3月 |
蘇我一族でありながら蘇我入鹿暗殺に協力し,右大臣にまでなった蘇我石川麻呂(蘇我倉山田石川麻呂)が謀反の疑いをかけられた。難波宮の邸宅は中大兄皇子の軍に包囲され,石川麻呂は飛鳥の山田寺に逃げてきたが,ここで自害した。石川麻呂の家族等も殉死あるいは処刑された。 |
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その後の主な出来事
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