大津京
 663年の白村江の戦いの後,667年3月中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都します。そして翌年1月に天智天皇として即位しました。遷都の理由は諸説あります。白村江の戦いで敗戦しているため唐・新羅連合軍に攻め込まれたときのため,飛鳥の有力豪族との関係,琵琶湖西岸には大友皇子が養育された大友郷があり6世紀後半頃から大陸や朝鮮半島から渡ってきた渡来人の子孫が多く住んでいたからなど様々です。天智天皇は天皇を中心とする中央集権国家を目指しましたが,遷都5年でこの世を去り,この後に起こった壬申の乱によって都は再び飛鳥に戻されました。
 大津に都があったのはわずか5年間でした。そのため,大津京の場所を特定することが難しかったのですが,昭和49年と53年の調査によって,錦織二丁目地域内に古代の建物の柱跡が見つかり,その配列や規模からここが大津宮の中心部分とされました。昭和54年には柱跡が発見された場所を「近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこうりいせき)」(この読みは遺跡案内板-滋賀県教育委員会設置による)として国の史跡に指定されています。今後の発掘による成果を待たねば大津京の全容を見ることはできないでしょうが,現在この地には住宅や商店が密集しており発掘調査は容易ではありません。
崇福寺跡(左 金堂 塔跡 右 崇福寺跡とあるが梵釈寺跡説が有力)
 大津京の北北西の方角にあり比叡山から続く尾根上に立つ。天皇の勅願によって668年(天智7)に建てられた。舎利容器,銅鏡,和同開珎など多く出土している。大津市滋賀里  
南滋賀町廃寺跡・出土瓦(案内板より)
 7世紀は大津京域内で寺院が多く建立された。南滋賀町廃寺もその一つで川原寺式の伽藍配置の大規模な寺院であった。ここから大陸から伝わった蓮華模様の方形軒瓦が出土している。大津市南滋賀1・2

錦織遺跡案内板

琵琶湖対岸から朝日が昇る
 飛鳥から未知の土地大津へは大海人皇子,鵜野讃良皇女,大友皇子,額田王,中臣鎌足らも移っていった。飛鳥の有力豪族の不満も聞き入れず,中大兄皇子の強い意志が遷都を実現した。


志賀宮跡石碑

錦織遺跡

大津京模型(大津歴史博物館許可)
手前,回廊の真ん中に内裏南門,左右には堀を巡らせた場所があり,中心部に内裏正殿がある

錦織遺跡

錦織遺跡

遺跡に残る礎石

穴太廃寺跡
バイパスの工事にともなって発掘調査され,現在は完全に埋め戻されていた。大津京の造営に伴って寺院の向きを変えて再建したとされてる。
三井寺(園城寺)
 天台宗門宗の総本山で大津京域の南限であろうとされる寺院。大友皇子の子の大友与多王が建立したとされる。現在の寺院の下層から当時の寺院跡があり,白鳳時代の川原寺式複蓮弁軒丸瓦が出土する。天智・天武・持統天皇が産湯に用いたとされる霊泉があり,御井の寺と呼ばれていたことから三井寺という。大津市園城寺町




比叡山
 後に最澄が延暦寺を建てた。大津京は琵琶湖と比叡山にはさまれた場所にあった

三井寺より大津市

琵琶湖・三上山
琵琶湖対岸へは船を使ったのであろう。その後馬を使って蒲生野への薬猟に出かけた。

プリンスホテルより大津市

北陸道
北陸道を通って日本海に出れば朝鮮半島へも渡ることができる,逆に渡来人たちはこの道を南下して大津に向かった

滋賀県八日市市 万葉の森壁画
 大津に遷都した翌年の5月5日,中大兄皇子は大海人皇子や額田王らとともに蒲生野に猟に出かけた。この時の大海人皇子と額田王の相聞歌がある。額田王は大海人皇子との間に十市皇女が生まれたが,後に中大兄皇子のもとに嫁いでいた。

 

瀬田唐橋
東山道を通って東国から都に入るには瀬田の唐橋を渡る。「壬申の乱」では決戦の舞台ともなった。当時の橋はここから下流80mのところにあった。
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