「壬申の乱」に登場する人物 | ||
壬申の乱の主な登場人物 |
天智天皇 |
父舒明天皇,母斉明天皇。葛城皇子かつらぎのみことよばれ626年に生まれる。中大兄皇子とは父が天皇として即位してからの呼び名。中臣鎌足とともに蘇我氏を討ち,天皇中心の政治に戻した。古人大兄皇子・有馬皇子・蘇我倉山田石川麻呂殺害や強引な政策に対し豪族達の不満も多かった。そのためもあってか,667年近江大津に遷都した。渡来人の登用や冠位制度の整備,近江令制定,庚午年籍などを行った。671年大津宮にて46歳で没したとされるが,不明な点が多い。 |
天智天皇陵(京都山科) |
大海人皇子 |
父舒明天皇,母斉明天皇。 大海人皇子の乳母は,尾張郡海部郷(伊勢湾に漁に出る海人集団が居住して尾張氏に仕えていた)出身。その首長である大海氏の娘であった。大海氏は少年時代の大海人皇子の教養に大きな影響を与えた人物でもある。 大化改新の主人公天智天皇と兄弟で,生年不明のため実は大海人皇子の方が年上という説もある。大化改新の頃は歴史の表舞台に大海人皇子の名前が出てこない。大津宮においては天智天皇を補佐し重要な役に就いていたが,天皇が弟を遠ざけ子の大友皇子を次期天皇とするようになったことから出家し吉野へ行く。しかし,天皇没後,挙兵し672年壬申の乱を起こす。673年飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位した。686年56歳で没する。檜隅大内陵に葬られる。 |
天武天皇・持統天皇陵 奈良県高市郡明日香村 |
天武天皇の 諡号(しごう) |
天武天皇(大海人皇子)の和風諡号は 天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと) 渟中原(ぬなはら)-沼の中の原として-飛鳥浄御原宮が小沼を開いたことによることからつけたと考えられている。 真人(まひと-八草の姓の一つ)奥義を悟った人とする 他の姓に,朝臣(あそん),宿禰(すくね)などがある。 瀛(おき)=大海を表す 当時,皇子の名前は乳母の姓を付ける慣わしだった。 |
板蓋宮の上に浄御原宮は建てられた |
斉明天皇 (皇極天皇) |
舒明天皇の皇后で中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子の母。 乙巳の変では皇極天皇として即位していたが大化改新を機に弟に譲位。しかし,孝徳天皇の没後再び斉明天皇として即位した。 大がかりな土木工事を行い,最近亀形の石像物が出たことで名前が知られるようになった。百済救済に筑紫に出かけ661年68歳で没した。越智崗上陵に葬られた。 |
越智崗上陵(奈良県高市郡高鳥町車木) |
大友皇子 |
671年1月5日,天智天皇によって天皇の次の位,太政大臣となった。次は天皇になることを決定づけられたことを意味する。壬申の乱当時は25歳だった。 大友皇子は皇子の養育を担当した大友郷-大津市坂本で勢力のあった大友系氏族を背後に持ち,頭脳明晰な人物であった。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)-伊賀の豪族の娘で身分が低い。天智の後,政治の実権を握るが立太子も天皇への即位もしなかった。しかし,実質的な実権を握っていた(称制という)。日本書紀は即位の事実を書いてないが,実際は即位していたとする説もある。 大海人の娘十市皇女を妻としたが,政略結婚と考えられる。 弘文天皇とよばれたのは明治3年になって天皇号をおくられたことによる。 長等山前陵が弘文天皇陵とされているが,茶臼山古墳(大津市秋葉台)や御霊神社(大津市鳥居川)も候補地となった。さらに千葉県君津市の白山神社とする異説もある。 |
弘文天皇陵(滋賀県大津市) |
伊賀采女宅子娘 いがのうねめやかこのいらつめ |
伊賀の采女として都に入ったが中大兄皇子に嫁ぎ大友皇子を生む。 | 鳴塚なりづか(三重県阿山郡大山田村) |
讃良皇女 うののさららのひめみこ |
645年天智天皇の第2皇女として誕生。盧と鳥を合わせた字で「う」と読む。蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)が母,大田皇女は姉。 13歳で大海人皇子の妃となった。百済救済の遠征の際,娜大津(なのおおつ 現在の博多)で草壁皇子を生む。壬申の乱の時大海人皇子とともに行動,乱の後も夫の天武天皇を補佐して政治を行う。天武天皇の死後,息子の草壁皇子を次の天皇にと考えるが草壁皇子が28歳で病死,自ら持統天皇となって藤原京に遷都した。702年58歳で没し,天武天皇と同じ檜隅大内陵に葬られる。 |
藤原京跡 |
[大海人皇子側] 高市皇子 たけちのみこ |
天武天皇の子の中では最年長。しかし,母親が地方の家の出身のため,草壁,大津につぐ第3の地位であった。母は胸形尼子娘(むなかたのあまこのいらつめ)。子に長屋王,鈴鹿王がいる。壬申の乱当時は19歳。 大和の高市郡という渡来系の豪族の中で育てられている。そのためか,大和の豪族たちの人望が厚く,これが戦いの力ともなっていく。 父大海人皇子が吉野を出たことを知らされ,機を見て大津京を脱出。伊賀で父と合流した。 壬申の乱では全軍の指揮をとることになった。 草壁皇子の死後は持統天皇より太政大臣に任命された。690年43歳で没する。三立岡墓(場所不明)に葬られる。 |
(わざみ)岐阜県関ヶ原町で 全軍の指揮をとった |
十市皇女 | 大海人皇子と額田王との間に生まれた十市皇女は高市皇子を想いつつも大友皇子に嫁いだ。壬申の乱では陰で動いた。乱の後は父のもとにいた。686年病死したことになっているが自害したとする説もある。「赤穂」というところに葬られたが,新薬師寺脇にある比賣塚(ひめつか)がその場所らしい。比賣神社(ひめかみしゃ)は鏡神社の摂社として鎮座している。大友皇子との間に葛野王(かどののおうきみ)が生まれる。 | 比賣神社(比賣塚) |
大津皇子 おおつのみこ |
天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の第1皇女,大田皇女(おおたのひめみこ)。 壬申の乱当時は10歳。機を見て大津京を脱出。鈴鹿峠を経て父と合流した。 幼少より文才に優れていた。名前の大津は生誕地娜大津(なのおおつ 現在の博多)からとったもの。 天武死後,皇太子への謀反の罪(実は無実)で死罪。墓は奈良二上山雄岳にある。 |
飛鳥から見える二上山(左のこぶのような山)の雄岳に大津皇子の陵がある |
[大海人皇子側] 村国連男依 むらくにむらじおより |
村国連男依(むらくにむらじおより)は美濃国各務郡(かかみのこおり)を本拠地とした豪族。 大海人皇子の命令で身毛君廣・和珥部臣君手らと美濃国へ行き安八磨郡の管理者である多臣品治に兵を集めるように伝えた。 朝明郡家で不破道封鎖を報告し,その後,大海人皇子軍の主将として琵琶湖東岸の東山道を進攻し,朝廷軍を撃破した。 |
村國神社(岐阜県各務原市) 村国連男依を祀っている |
[大海人皇子側] 大伴連吹負 おおとものむらじふけい 大伴連馬来田 おおともむらじまくだ |
馬来田(まくだ:兄)・吹負(ふけい:弟)は兄弟で,大海人皇子が吉野へ行くときも大津京に残っていたが,決起すると知り,病気と偽って故郷の大和(奈良県)に帰る。そして,大和の豪族たちをまとめ,奈良での戦いに備えた。 乃楽山(ならやま)での戦いは朝廷軍に押されて敗退するが,東国よりの応援の兵を得て一軍の将として當麻で戦って勝利。すぐに大和,飛鳥を平定した。 |
平城京跡地の北,平城(なら)駅付近 かつては「乃楽山」と書いて「ならやま」と呼んだ |
絵は愛知県春日井市立松原中学校の美術部生徒(山越理恵,小田恵,高橋真理,舟橋潤佳,吉村真規子 平成12年度3年生)によるもの
皇族関係者
有間皇子 ありまのみこ |
孝徳天皇の皇子。母は左大臣阿倍倉梯麻呂の女小足媛。658年10月、蘇我赤兄の罠にはまり逮捕、紀伊へ護送され、藤白坂で処刑された。19歳。 |
石川王 いしかわのおうきみ |
大海人皇子が三重郡家に着いた時、夜半に鈴鹿関司が山部王と石川王が関に到着したと伝えられたが、実際は大津皇子であった。大海人皇子側についた。679年没した。 |
大伯皇女 おおくのひめみこ |
天武天皇の皇女で、母は天智天皇の皇女大田皇女。百済救援に筑紫へ遠征途中の大伯海(岡山県邑久郡付近)の船上で出産したのでこの名がついた。673年斎王となり、翌年伊勢に赴いた。701年41歳で没した。 |
大田皇女 おおたのひめみこ |
天智天皇の長女。母は蘇我倉山田石川麻呂の女遠智娘。鵜野皇女とともに大海人皇子の妃となる。大伯海(岡山県邑久郡付近)の船上で大伯皇女,娜大津(博多)で大津皇子を生む。斉明天皇陵(奈良県高市郡高鳥町車木)前に葬られた。 |
忍壁皇子 おさかべのみこ |
天武天皇の皇子。母は宍人臣大麻呂の娘で宍人かじ媛娘(ししひとのかじひめのいらつめ)。壬申の乱では父について吉野を脱出し東国へ行く。700年「大宝律令」の選定,701年完成させる。705年没した。 |
葛野王 かどののおうきみ |
大友皇子の子。母は天武天皇の皇女十市皇女。皇位継承は子孫相承が国の法ととなえ文武天皇の擁立に寄与した。705年37歳で没した。 |
川嶋皇子 かわしまのみこ |
天智天皇の皇子。母は忍海小龍の女。686年大津皇子の謀反を密告。691年35歳で没し越智野(奈良県高市郡高取町越智)に葬られた。 |
草壁皇子 くさかべのみこ |
天武天皇と持統天皇の皇子。妃は天智天皇の皇女阿閇皇女で後に元明天皇となる。子に文武天皇,元正天皇,吉備内親王。壬申の乱では父母について吉野を脱出し東国へ行く。689年皇太子のまま28歳で没した。真弓丘陵(奈良県高市郡高取町森) |
栗隅王 くるくまのおうきみ |
筑紫の大宰だった壬申の乱の時,近江朝からの出兵要請を拒否した。676年没する。 |
孝徳天皇 こうとくてんのう |
皇極天皇の同母弟。中大兄皇子の妹間人皇女を皇后とした。645年中大兄皇子らのクーデター乙巳の変の後年号を大化と改め難波長柄豊碕宮に遷都した。天皇といっても実権は中大兄皇子が握っていた。両者の仲は悪く,653年,中大兄皇子は母,妹とともに飛鳥に戻ってしまう。654年難波宮で没する。 |
[大海人皇子側] 高坂王 たかさかのおおきみ |
壬申の乱の時は近江朝についており,留守司として倭京にいた。大海人皇子の命を受けた大分君恵尺が高坂王に会って駅鈴を要求したが王はこれを拒否した。その後,大伴連吹負の急襲にあい捕らえられたが,大海人皇子につくことで解放された。 |
舎人親王 とねりしんのう |
天武天皇の子。母は天智天皇の皇女新田部皇女。日本書紀の編纂を主宰,720年完成させた。735年没する。 |
額田王 ぬかたのおうきみ |
父は鏡王といわれているが詳細は不明。大海人皇子との間に十市皇女を生む。後に天智天皇に仕える。万葉集に13首の歌を残す。 |
[大海人皇子側] 美濃王 みののおうきみ |
壬申の乱では宇陀甘羅村で大海人皇子と合流する。天武天皇の政治を支える官人。 |
間人皇女 はしひとのひめみこ |
父舒明天皇,母斉明天皇。天智・天武の妹。母の弟孝徳天皇の皇后となるが中大兄皇子らとともに飛鳥に戻ってしまう。中大兄皇子の実の妹であるが仲を噂され,それがもとで皇子が天皇に即位することが遅れたとする説もある。665年没する。母とともに越智崗上陵(奈良県高市郡高鳥町車木)に葬られた。 |
穂積親王 ほづみしんのう |
天武天皇の皇子。母は蘇我臣赤兄の女。715年没する。 |
倭姫王 やまとひめのおおきみ |
父は古人大兄皇子 母は不明。天智天皇の皇后。大海人皇子は出家し吉野へ行く前,病床の天智天皇に倭姫王を即位させ大友皇子を太政大臣とする摂政を進言した。天智天皇の没後倭姫王が即位したとする説もある。 |
[大海人皇子側] 稚狭王 わかさのおうきみ |
高坂王とともに大海人皇子側についた。 |
[大海人皇子側] 赤染造徳足 あかそめのみやつことこたり |
高市皇子に従っていた舎人 |
[大海人皇子側] 懸犬養連大伴 あがたのいぬかいのむらじおおとも |
大海人皇子の舎人。壬申の乱で大海人皇子に馬を提供した。 |
[大海人皇子側] 安斗連阿加布 あとのむらじあかふ |
大海人皇子が朝明郡家に到着した時,皇子の命で軍兵を募るために山背部小田とともに東山道へ派遣された。 |
[大海人皇子側] 安斗連智徳 あとのむらじちとこ |
吉野脱出時から大海人皇子に従っていた舎人のひとり。彼の日記『安斗智徳日記』が『日本書紀』編纂時の資料となった。 |
[大海人皇子側] 逢臣志摩 あうのおみしま |
大海人皇子が吉野を発って東国へ向かう時高坂王のもとに駅鈴を受け取りに行った。それを得られず,皇子に報告した。 |
[大海人皇子側] 安倍普勢臣御主人 あべのふせおみみうし |
具体的には不明だが乱の功績が認められ褒美を賜っている。 |
[大海人皇子側] 荒田尾直赤麻呂 あらたおのあたえあかまろ |
倭京を急襲した。その後布陣し,橋を壊して盾を作り,それらを並べて倭京を守った。 |
[大友皇子側] 廬井造鯨 いおいのみやっこくじら |
大友皇子軍として大和で大伴連吹負の軍と戦った。敗れて敗走した。 |
胆香瓦臣安倍 いかごのおみあへ |
高市皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。近江での戦いで活躍。 |
[大友皇子側] 壹伎史韓国 いきのふひとからくに |
大友皇子軍の将軍。河内の衛我河で大海人皇子軍を敗るが当麻の戦い(葦池 あしいけ)では大友吹負の軍と戦って敗れた。 |
[大海人皇子側] 出雲臣狛 いずものおみこま |
不破の玉倉部の戦いで大友皇子軍を撃退した。後に三尾城を攻めた。 |
[大友皇子側] 韋那公磐鍬 いなのきみいわすき |
近江朝の使者で東国に派遣されたが不破で止められ,大津京に逃走した。 |
[大友皇子側] 犬養連五十君 いぬかいのむらじいきみ |
大友皇子軍の武将で,大野果安のあと大和で大伴連吹負の軍と戦って敗れた。 |
[大海人皇子側] 忌部首子人 いみべのおびとこびと |
荒田尾直赤麻呂と倭京を守った。 |
[大海人皇子側] 朴井連雄君 えのいむらじおきみ |
大海人皇子の舎人。物部雄君ともいう。美濃へ帰ったときに近江朝が美濃・尾張の国司に命じて人夫を集めていることを知り大海人皇子に報告した。詳細は不明だが物部氏一族として尾張の豪族たちとのつながりがあり,説得工作に奔走した。 |
[大海人皇子側] 大分君恵尺 おおきだのきみえさか |
大海人皇子の舎人で高坂王のもとに駅鈴を受け取りに行った。しかし拒否されたので大津へ行き,大津皇子脱出の手助けをした。 |
[大海人皇子側] 大分君稚臣 おおきだのきみわかおみ(わかみ) |
大分君恵尺とともに大津皇子脱出の手助けをした。瀬田の戦いでは矢を受けながらも勇敢に大友皇子軍に突進したため,それがもとで大友皇子軍は総崩れとなった。 |
[大海人皇子側] 大蔵直広隅 おおくらのあたえひろすみ |
高市皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。 |
[大海人皇子側] 大伴朴本連大國 おおとものむらじおおくに |
宇陀甘羅村で20人余りの猟師とともに大海人皇子一行に加わる。 |
[大海人皇子側] 大伴連友国 おおとものむらじともくに |
吉野脱出のとき従っていた大海人皇子の舎人の一人。 |
大伴連御行 おおとものむらじみゆき |
大海人皇子軍の将軍だが行動は不明。万葉集に歌を残す。 |
[大海人皇子側] 大伴連安麻呂 おおとものむらじやすまろ |
大伴連御行の弟。大伴吹負らが倭京を急襲して占拠したことを不破の大海人皇子に報告した。 |
[大海人皇子側] 多臣品治 おおのおみほんじ(ほむち) |
大海人皇子軍の武将。古事記の撰者太安万侶の父。美濃の湯沐邑の湯沐令ゆののうながし-皇族の領地を管理する人。不破の道を塞いだ後,伊賀に出兵し大友皇子軍と戦った。 |
[大友皇子側] 大野君果安 おおののきみはたやす |
大友皇子軍の将軍で乃楽山での戦いで大伴連吹負の軍と戦って勝った。しかし,乱の後は天武天皇に従っていた。 |
[大海人皇子側] 置始連菟 おきそめのむらじうさぎ |
大海人皇子軍の将軍で大伴連吹負を助け,大伴連吹負とともに大和箸墓で大友皇子軍(犬養五十君の軍)を敗った。 |
[大友皇子側] 忍坂直大摩呂 おしさかのあたえおおまろ |
近江朝の使者で東国に派遣されたが不破で捕らえられた。 |
[大海人皇子側] 小墾田猪手 おはりだのいて |
大津皇子の脱出を手助けした。 |
[大海人皇子側] 鴨君蝦夷 かものきみえみし |
大伴吹負軍に加わり倭京を急襲した。その後,石手道(竹内峠)を守った。 |
[大海人皇子側] 紀臣阿閇麻呂 きのおみあへまろ |
大海人皇子軍の援軍の将軍。美濃から倭京へ出兵。置始連菟に兵を与えて大伴連吹負を救援し,倭京を奪い取った。 |
[大友皇子側] 紀大人 きののうし |
なぜか乱後に処罰されていない。 |
[大友皇子側] 紀臣大音 きのおみおおと |
大海人皇子の兵と大和で戦った。 |
[大海人皇子側] 黄書造大伴 きふみのみやっこおおとも |
大海人皇子が吉野を発って東国へ向かう時高坂王のもとに駅鈴を受け取りに行った。大伴馬来田・吹負に皇子の挙兵を報告し,共に宇陀で大海人皇子と合流した。 |
[大友皇子側] 樟使主磐手 くすのおみいわて |
大友皇子の兵で,吉備国へ徴兵に出る。吉備国司當摩公廣嶋(たぎまのきみひろしま)が大海人皇子側につきそうなので殺した。 |
[大友皇子側] 来目臣塩籠 くめのおみしおこ |
河内国司で大海人皇子側につくつもりだったがばれて自害した。 |
[大海人皇子側] 倉墻直麻呂 くらかきのあたいまろ |
大伴連吹負とともに大和で戦う。後に龍田(奈良県生駒郡)を守る役に就く。 |
[大友皇子側] 巨勢臣人 こせのおみひと |
大友皇子軍の将軍で不破の攻撃に向かったが,犬上川で内輪もめが生じ,蘇我臣果安とともに山部王を殺す。流罪。 |
[大友皇子側] 社戸臣大口 こそへのおみおおくち |
大友皇子軍の将軍で野洲川で戦い大海人皇子軍に敗れて捕らえられた。 |
[大海人皇子側] 駒田勝忍人 こまだのすぐりおしひと |
大津皇子に従って大津を脱出した。 |
[大海人皇子側] 佐伯連大目 さえきのむらじおおめ |
大海人皇子の舎人。皇子とともに吉野を脱出した。 |
[大友皇子側] 佐伯連男 さえきのむらじおのこ |
大友皇子の兵で,筑紫へ徴兵に出るが栗隅王くるくまのおおきみに近江朝からの出兵要請を拒否された。 |
[大友皇子側] 境部連薬 さかいべのむらじくすり |
大友皇子軍として息長横河で戦って戦死した。 |
[大海人皇子側] 坂上直老 さかのうえのあたえおきな |
倭京を急襲して占拠したしたことを不破の大海人皇子の下に行き報告した。 |
[大海人皇子側] 坂上直国麻呂 さかのうえのあたいくにまろ |
高市皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。 |
[大海人皇子側] 坂上直熊毛 さかのうえのあたえくまけ |
倭京の留守司として倭京にいたが大海人皇子側についていた。 |
[大海人皇子側] 坂本臣財 さかもとのおみたから |
倭京を急襲した後,河内から攻めてくる大友皇子軍と戦うため龍田(奈良県生駒郡)を守る役に就く。その後衛我河(大阪府柏原市)で壹伎史韓国 いきのふひとからくにと戦って敗れた。 |
[大海人皇子側] 佐味君宿那麻呂 さみのきみすくなまろ |
倭京を急襲して占拠したしたことを不破の大海人皇子の下に行き報告した。 |
蘇我遠智娘 そがのおちのいらつめ |
蘇我倉山田石川麻呂の娘。中大兄皇子は中臣鎌足の勧めで妃とする。大田皇女・皇女・建(たける)皇子を生んだ。 |
[大友皇子側] 蘇我臣赤兄 そがのおみあかえ |
左大臣。有馬皇子を誘い謀反を起こさせておいてこれを密告した。大海人皇子を宇治まで見送った従者の一人。娘が大海人皇子に嫁いだ。乱後に流罪。 |
[大友皇子側] 蘇我臣果安 そがのおみはたやす |
大友皇子軍の将軍で不破の攻撃に向かったが,犬上川で内輪もめが生じ,巨勢臣人こせのおみひととともに山部王を殺す。その後自害した。 |
蘇我倉山田石川麻呂 そがのくらやまだいしかわまろ |
乙巳の変(645年大化改新)のとき天皇の前で上表文を読んだ。蘇我日向ひむかの密告で謀反人とされ山田寺で自害したが無実だった。 |
高市懸主許梅 たけちのあがたぬしこぬ |
大伴連吹負が金綱井(奈良県橿原市)にいるとき急に神がかりして「我は神・・・・」と言った。 |
[大海人皇子側] 高田首新家 たかだのおびとにいのみ |
鈴鹿で大海人皇子を迎えた。大海人皇子から500の兵を与えられ,鈴鹿道を塞いだ。 |
當摩公廣嶋 たぎまのきみひろしま |
吉備国司。大海人皇子に従おうとしたので樟使主磐手くすのおみいわてに殺された。 |
[大海人皇子側] 田中臣足麻呂 たなかのおみたりまろ |
鈴鹿で大海人皇子を迎えた。後,倉歴(くらふ)の道を守っていたが大友皇子軍(田辺小隅たなべのおすみ)ど戦って敗れた。 |
[大友皇子側] 田辺小隅 たなべのおすみ |
大友皇子軍の将軍で倉歴(くらふ)の道にいた大海人皇子軍の田中足麻呂軍と戦った。その後多臣品治(おおのおみほんじ)と戦って敗れた。 |
[大友皇子側] 谷直塩手 たにのあたえしおて |
大友皇子軍の将軍として瀬田で戦って敗れ,乱の後斬り殺された。 |
[大海人皇子側] 谷直値麻呂 たにのあたえねまろ |
大海人皇子軍の将軍で坂本臣財さかもとのおみたからとともに龍田(奈良県生駒郡)を守る役に就く。 |
[大海人皇子側] 民直大火 たみのあたえおおひ |
高市皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。 |
[大海人皇子側] 民直小鮪 たみのおみしび |
大海人皇子軍の将軍で坂本臣財さかもとのおみたからとともに龍田(奈良県生駒郡)を守る役に就く。 |
[大海人皇子側] 小子部連金且鈎 ちいさこべのむらじさいち |
尾張の国司。大海人皇子軍のもとに20000人の兵を連れて行ったが本意ではなかったようで,後に自害している。 |
[大友皇子側] 智尊 ちそん |
大友皇子軍の将軍。瀬田橋の戦いで大海人皇子軍と戦って敗れた。 |
[大海人皇子側] 調首淡海 つきのおびとおうみ |
大海人皇子の舎人。皇子とともに吉野を脱出した。乱の後に『調連淡海日記』を書いた。 |
[大海人皇子側] 長尾直真墨 ながおのあたえますみ |
大友皇子軍と戦うため龍田(奈良県生駒郡)を守る役に就く。 |
[大友皇子側] 中臣連金 なかとみのむらじかね |
右大臣。大友皇子軍の重臣で瀬田橋で戦ったが敗れた。捕らえられた後斬り殺された。 |
[大海人皇子側] 難波吉士三綱 なにわのきしみつな |
大津皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。 |
[大海人皇子側] 漆部友背 ぬりべのともせ |
大津皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。 |
[大海人皇子側] 根連金身 ねのむらじかねみ |
大津皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。 |
[大海人皇子側] 土師連馬手 はじのむらじうまて |
宇陀の土地の管理をしている人物で,宇陀吾城(うだのあき)で大海人皇子に会い,食事を出した。その後,稚桜部五百瀬とともに信濃へ出向き徴兵の指示をした。 |
[大友皇子側] 土師連千嶋 はじのむらじちしま |
大友皇子軍の将軍で野洲川の戦いで敗れ捕らえられた。 |
[大海人皇子側] 泥部胝枳 はづかしべのしき |
大津皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。 |
[大海人皇子側] 羽田公矢国 はたのきみやくに |
大友皇子軍についていたが犬上川の内輪もめで山部王が殺されたため,それ以後大海人皇子軍についた。 |
[大友皇子側] 羽田大人 はたののうし |
矢国の子 |
[大友皇子側] 秦友足 はたのともたり |
大友皇子軍の将軍で鳥籠山(とこのやま)の戦いで敗れて殺された。 |
[大海人皇子側] 秦造熊 はたのみやっこくま |
倭京を急襲したとき高坂王の軍に突撃した。「高市皇子の軍が攻めてくる」と嘘の情報を流して追い払った。 |
藤原鎌足 ふじわらのかまたり |
中臣鎌子,中臣鎌足も同じ。蘇我氏を打倒するため中大兄皇子に近づき親交を深める。中大兄皇子の重臣として大海人皇子とともに政治に深く関わる。兄天智と弟大海人の仲を取り持ち,また天皇と大和の豪族達との調整もしていた。大化改新までが「鎌子」,それ以降「鎌足」といった。669年大織冠(だいしょくかん)の位と藤原姓を天智天皇より賜った。 |
[大友皇子側] 書直薬 ふみのあたえくすり |
近江朝の使者で東国に派遣されたが不破で捕らえられた。 |
[大海人皇子側] 書直智徳 ふみのあたえちとこ |
大海人皇子の舎人。皇子とともに吉野を脱出した。 |
[大海人皇子側] 書直根麻呂 ふみのあたえねまろ |
大海人皇子の舎人として東国を奔走する。近江や瀬田橋の戦いで活躍した。宇陀郡榛原町で墓が発見され,骨壺や墓誌などが確認された。 |
古市黒麻呂 ふるいちのくろまろ |
高市皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。 |
[大友皇子側] 穂積臣百足 ほづみのおみももたり |
大友皇子軍の兵で小墾田の兵庫から武器を運び出そうとしていたが,大伴連吹負らに襲われ飛鳥寺で殺された。 |
[大海人皇子側] 穂積五百枝 ほづみのいおえ |
穂積百足の弟。飛鳥で大海人皇子側についた。 |
[大海人皇子側] 路直益人 みちのあたえますひと |
鈴鹿関へ大津皇子を迎えに行った。 |
[大海人皇子側] 三宅連石床 みやけのむらじいわとこ |
伊勢国の国司として鈴鹿で大海人皇子を迎えた。兵500人で鈴鹿の山道を守った。 |
[大海人皇子側] 三輪君子首 みわのきみこびと |
鈴鹿で大海人皇子を迎えた。伊勢から大和へ進攻した。 |
[大海人皇子側] 三輪君高市麻呂 みわのきみたけちまろ |
大伴連吹負の指揮の下で箸墓付近で大友皇子軍と戦い勝利した。 |
[大海人皇子側] 身毛君廣 むげつのきみひろ |
大海人皇子の命令で村国連男依・和珥部臣君手らと美濃国へ行き安八磨郡の管理者である多臣品治に兵を集めるように伝えた。不破道の閉鎖をした。その後近江へ進軍した。 |
[大海人皇子側] 物部首日向 もののべのおびとひむか |
大友皇子の徴兵命令で倭京に派遣されたが大伴連吹負に捕らえられた。その後穂積五百枝とともに大海人皇子軍に従った。 |
[大友皇子側] 物部連麻呂 もののべのむらじまろ |
大友皇子の最期を見届けた。首を大海人皇子の下へ持参した。その後天武朝の重臣となる。 |
山背直小林 やましろのあたいおばやし |
吉野から大海人皇子に従っていた舎人の一人。 |
[大海人皇子側] 山背部小田 やましろべのおだ |
吉野から大海人皇子に従っていた舎人の一人。東海軍の編成をした。 |
[大友皇子側] 山部王 やまべのおおきみ |
大海人皇子が三重郡家に着いた時、夜半に鈴鹿関司が山部王と石川王が関に到着したと伝えられたが、実際は大津皇子であった。近江朝の武将として犬上川で陣をしいたが内輪もめで仲間の蘇我臣果安と巨勢人に殺された。事情は不明だが山部王は大海人皇子側につくつもりであったから殺されたという説もある。 |
[大海人皇子側] 山辺君安麻呂 やまべのきみやすまろ |
大津皇子の大津脱出を援助した舎人のひとり。 |
[大海人皇子側] 和珥部臣君手 わにべのおみきみて |
大海人皇子の命令で身毛君廣・村国連男依らと美濃国へ行き安八磨郡の管理者である多臣品治に兵を集めるように伝えた。不破道の閉鎖をした。村国連男依らと不破から近江へ進軍した。 |
[大海人皇子側] 稚桜部臣五百瀬 わかさくらべのおみいおせ |
吉野から大海人皇子に従っていた舎人の一人。東山道で信濃に出向き徴兵を伝えた。 |
この年表制作のため以下の書籍を参考にしました
・「よみがえる大津京」 大津市歴史博物館
・「壬申の乱をゆく」 奈良交通株式会社
|