「壬申の乱」の戦い | ||
戦いが終わって
7月26日 大友皇子の首不破へ |
首は大海人軍によって関ヶ原にある野上の本営へ運ばれ,大海人皇子の前へ差し出された。 不破郡関ヶ原町に自害峰(じがいみね)とよばれるところがある。小高い山の斜面にあり,その下に,黒血川が流れる。黒血川という名前は壬申の乱の際,この川の水が戦った兵士の血で黒く濁ったことからつけられているらしい。案内板に,「弘文天皇の御首が葬られたと伝えられています」とある。 時々,新幹線の走る音が聞こえる所だが,昼でも不気味に暗い。 大友皇子についての異説がある。 |
自害峰(関ヶ原) |
余談 若宮八幡社 |
黒血川を挟んで西に若宮八幡社がある。ここには大友皇子が祀られている。 | 若宮八幡社(関ヶ原町) |
余談 井上神社 |
黒血川を挟んで東に井上神社がある。ここには天武天皇が祀られている。 | 井上神社(関ヶ原町) |
余談 大友皇子陵 |
大津市にある三井寺(園城寺)近くに大友皇子の陵がある。 大友皇子たちは大津京を眼下にして自害したと思われる。今,その地に弘文天皇(明治時代におくられた)陵がおかれている。 |
弘文天皇陵(大津市) |
余談 御霊神社 |
近江国府がおかれていた場所に近い大津市鳥居川に御霊神社がある。ここは弘文天皇を祭神としている。 | 御霊神社(大津市鳥居川) |
余談 茶臼山古墳 |
大友皇子の陵候補地となっていた茶臼山古墳には,大友皇子や皇子に殉じて葬られたた重臣達の塚がある。 | 茶臼山古墳 墳丘上 (大津市秋葉台) |
余談 将軍塚 |
大友皇子側についた豪族たちが葬られていると伝えられる。 将軍塚については地元の人に尋ねたがわからない様子。「大津市の歴史」という本によれば美崎町2とある。写真ではわかりにくいが,小さな祠と木に神縄が巻いてあることからこれが将軍塚ではないかと思われる。 |
滋賀県大津市美崎町 |
余談 鳳凰寺 |
地元の伝承によると,乱の後,郷里へ帰った大友皇子の母(伊賀采女宅子娘 いがのうねめやかこのいらつめ)は鳳凰寺を建てて皇子の菩提を弔ったといわれている。現薬師寺は鳳凰寺の跡地に建てられており,寺の礎石は鳳凰寺のものが使われている。入り口脇には史跡鳳凰寺跡の石碑が建っている。 | 薬師寺(三重県阿山郡大山田村) |
余談 鳴塚 |
鳴塚(なりづか)は昔から「天皇の御譲位があるたびに塚が鳴る」と言われることからその名がつけられたと大山田村観光協会が建てた碑にある。鳴塚は全長37mの前方後円墳で大友皇子の母を生んだ豪族の墓,大友皇子の母の墓,大友皇子陵などと伝えられ,正しいことはわからない。 | 鳴塚(三重県阿山郡大山田村) |
勝因・敗因 | 大海人皇子の勝因 ①倉歴道(くらふのみち),鈴鹿関,不破の道を早くから確保したこと。 ②朝廷に不満を持つ近畿の中小豪族が味方になり大海人皇子の舎人たちを中心とした兵士軍の組織作りもしっかりしていた。 ③東国,特に尾張の兵が多数味方したことと,美濃,三河,伊勢,信濃,甲斐の兵が集結したこと。 大友皇子の敗因 ①朝廷内の動揺が激しく,組織作りに手間取った。 ②九州の豪族が要請に応えなかった。また,西国の豪族の団結力が弱かった。 ③畿内の大豪族が味方したが,将軍が内紛を起こして分裂してしまった。 |
明日香村 |
9月12日 飛鳥古京にもどる |
9月8日に不破を出発した大海人皇子は吉野からの道を戻り飛鳥に向かった。 12日,大海人皇子は飛鳥に着き,飛鳥嶋宮に入り,15日岡本宮に移った。 | 石舞台古墳近くに飛鳥嶋宮があった |
673年2月 飛鳥浄御原宮 |
2月27日飛鳥浄御原宮で天武天皇が即位。この後15年間の天武天皇による専制政治が開始された。 ここで正式に,宇宙を統治する天帝という意味の「天皇」という語を使用した。天武天皇が「天皇」という称号をつかった最初の天皇である。 |
飛鳥板蓋宮跡とされているが,飛鳥浄御原宮であった可能性が高いとされる所 |
|