壬 申 の 乱 |
このページは「飛鳥の扉」の一部です。 中学生・高校生にもわかりやすく「壬申の乱」について解説します。 大化改新の中心人物であった天智天皇が亡くなったあと,天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子の大友皇子との間で皇位継承問題がおこります。これが「壬申の乱」(672年)です。 ここでは大海人皇子と大友皇子が争うことになった背景と戦いの経過,乱の後の様子を見ていきます。 |
<翼をつけた虎を野に放つ>
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<天智天皇大津京で即位> 645年大化改新,663年白村江の戦いの後,中大兄皇子は飛鳥(奈良県)から近江(滋賀県)の大津京に遷都(せんと)し,天智(てんじ)天皇となりました。 |
大津市内 |
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<大海人皇子出家して奈良県吉野へ> 671年病床にあった天皇は弟の大海人皇子を呼び,天皇の位(この当時はまだ「大王(おおきみ)」とよばれていて,「天皇」という称号を使っていない)を譲(ゆず)ることを伝えます。しかし,大海人皇子はこれを辞退(じたい)し,即座に髪を切り出家して吉野宮(吉野離宮-奈良県吉野郡吉野村)へ移り住むことにしました。 |
大津京模型(大津市歴史博館許可) |
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<この背景にあるものは・・・・> 天智天皇の皇位を譲(ゆず)ると言ったことは本心ではありません。なぜなら,この年,天智天皇は子の大友皇子に太政大臣(だいじょうだいじん)を任じており,次の天皇にすることを決めていたからです。 大化改新の時には名前が出てきませんでしたが,大津京での大海人皇子は皇太弟という地位であり,次期天皇としての役割も担(にな)っていました。飛鳥から大津京に移ってからは,中臣(藤原)鎌足とともに天智天皇を補佐して政治の中心にいたことは確かです。急進的な改革を進める天智天皇には反対する豪族たちも多くいましたが,その調整役としての大海人皇子の役割は大きかったようです。そういう立場でもあり,また,温厚な性格であったために,周りの者たちは次の天皇は天智天皇の同母弟の大海人皇子だと信じていました。 しかし,天智天皇は子の大友皇子が成長するにつれ,その優秀な才能を認めて次の天皇にすることを考え始めます。天皇の子が次の天皇になるということは,同母の兄弟で皇位を継承するとしていた当時の慣例からは考えられないことでした。また,大友皇子の生母は地方豪族(伊賀)の娘で身分が低いため,次の天皇は明らかに大海人皇子のはずです。大友皇子を次の天皇とするためには周りが納得できる理由がなくてはなりません。 天智天皇はだんだん大海人皇子を疎(うと)んじるようになります。さらに,それまでの慣例だった同母兄弟相続から,父子直系相続という皇位継承(こういけいしょう)方法に変えることを表に出します。これによって大海人皇子が次期天皇になることはなくなりました。そして,しだいに政治からも遠ざけられるようになっていきました。 そんな時,病気がちだった天智天皇が大海人皇子に「皇位を譲る」と言ったとしても,大海人皇子の返答によっては命すら危ないことになっていたでしょう。そのため,大海人皇子は天皇になる意志がないことを伝え,それを素早く実行することで自らの,そして家族の命をも救うことになります。大海人皇子は武器を朝廷に返し,出家して,数人の舎人(とねり-身辺を警護する役)たちや妃の鵜野讃良皇女(注1 うののさららのひめみこ-後に藤原京で政治を行った持統天皇),幼い子供らを連れて都(大津京)を去ります。 (注1 鵜は正しくは盧と鳥を合わせた字 注2 写真は「大和の考古学」より 奈良県立橿原考古学博物館許可) |
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<大友皇子の政治> 671年12月 天智天皇が46歳で没すると,子の大友皇子(乱当時25歳)の政治が始まります。(弘文天皇という名は明治時代に追諡(ついし)されたものです) 当時,大友皇子が大王になっていなくても,実質的には政治の実権を握っていました。 |
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<決断の時> 672年5月 吉野の大海人皇子のもとへ緊急事態を知らせる者がやってきます。近江の朝廷が先の天皇の陵(みささぎ-墓)を造ると言って美濃と尾張の農民を集め,武器も持たせているというのです。また,大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,さらに,吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきました。大友皇子の妃で,大海人皇子と額田王(ぬかたのおおきみ)との子十市(といち)皇女からも朝廷の動きを伝えてきました。 いよいよ自分の身に危険が迫っており,今こそ決断の時と考え,吉野を出て戦うことを決意します。そのためには,安全な地へ身を移さねばなりません。大海人皇子は自分の私領地がある美濃への脱出を決行します。そして,舎人たちに命じて東国(現在の三重県東部・岐阜県・愛知県・長野県)の豪族たちを味方にするよう準備を進めます。 |
吉野宮模型(吉野歴史資料館蔵 資料館許可) |
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暗闇の中,吉野を脱出 |
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<吉野を出て伊賀へ・・・6月24日> 舎人たちに作戦開始を告げます。そして,子の高市皇子(たけちのみこ),大津皇子(おおつのみこ)の都からの脱出と東国(美濃,尾張,三河から甲斐,信濃)の兵を集めることを部下たちに指示します。 大海人皇子は子の草壁皇子,忍壁皇子,鵜野讃良皇女(持統天皇)や数人の舎人らで20人ほど,そして侍女たち10数人を連れ吉野宮を出ました。まず伊賀に向かって進んでいきます。 |
吉野から宇陀へは山間をぬける |
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<伊賀をぬける・・・6月25日> 山をぬける道と違って野の道は平坦で進みやすいのですが,敵から身を隠す木々はなく,緊張の連続だったことでしょう。味方の兵が集結したとはいえ,この伊賀(三重県上野市)の東部は大友皇子の母の地(現大山田村)です。いつ敵がおそってくるかわかりません。 |
伊賀の地 |
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<伊勢の国へ・・・6月25日> 加太(かぶと)峠を越えれば伊勢に入ります。伊勢には味方もいるので安心です。甲賀を越えて脱出した高市皇子と合流して,伊勢に入ります。ここを越えれば畿内から東国へ脱出成功です。 |
現在も残る古道 大和街道(関町) |
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<鈴鹿道と不破道の確保> 鈴鹿(すずか)道と不破(ふわ)道は交通の要所です。ここをおさえることで都と東国とが遮断(しゃだん)されます。大海人皇子に味方した兵たちでこの2か所を完全に確保します。 後の不破関の近くに前線本部を置きます。その最高司令官は大海人皇子の子19歳の高市皇子(たけちのみこ)です。 |
不破関跡付近(旧中山道 岐阜県関ヶ原町) |
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<桑名入り・・・6月26日> 三重郡家(みえのこおり)→朝明郡(あさけのこおり)を経て桑名郡家(くわなのこおりのみやけ-桑名郡の役所)にたどり着きます。 |
桑名市蛎塚新田の丘陵地内に 桑名郡家跡があったらしい |
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大海人皇子は不破で全軍に指示する |
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<大海人皇子不破へ・・・6月27日> 高市皇子の要請によって,桑名にとどまっていた大海人皇子は前線本部のある不破(岐阜県不破郡関ヶ原)へ行きます。 前線本部のある不破の近くに野上という所があって,尾張地方の支配者であった尾張氏の私邸を借りて,そこを行宮(あんぐう-仮の宮)とします。 |
野上行宮跡(関ヶ原町野上) |
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高市皇子を総大将とする前線本部(「わざみ」という所) ここに東国(美濃・尾張・三河・甲斐・信濃方面)からの兵数万が集結しました |
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<出陣の時・・・672年7月2日> 大きく二手に分かれて出陣(しゅつじん)しました。 ①大海人皇子が脱出した吉野から不破への道を逆に戻って大和(奈良)へ進む ②琵琶湖東岸を大津京に向かって進む これらとは別に ③琵琶湖西側を大津に向かう ④大和(奈良県)で朝廷軍と戦う |
JR東海道線関ヶ原駅付近 前線本部は(わざみ) という所にありました |
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< 壬 申 の 乱 決 戦 > 高市皇子を大将に出陣です 兵の衣装は不破関駐屯兵模型を参考にしてください |
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戦いの様子を詳しく見るには次のタイトルをクリックしてください 簡単に見ていくのならこのまま下へ進んでください
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<高安城(たかやすのき)の戦い・・・7月2日> 大伴吹負(おおとものふけい)を大将とする大海人皇子軍は朝廷軍がいる高安城(たかやすのき)に向かいます。すると朝廷軍は米倉に火をつけて逃げました。 |
高安山(大阪府・奈良県境)に残る倉庫跡 |
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<乃楽山(ならやま)の戦い・・・7月4日> 大伴吹負軍は現在平城京跡がある場所を北に上った乃楽山で朝廷軍と戦いました。簡単には勝利できず,大海人皇子軍が敗走することもありました。 |
平城京の北,平城(なら)駅近くで戦いました |
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奈良での戦いは大伴吹負(おおとものふけい)・馬来田(まぐた)の兄弟が大活躍しました |
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<当麻(たぎま)の戦い・・・7月4・5日> 大伴吹負(おおとものふけい)を大将とする大海人皇子軍は朝廷軍と二上山のふもとで戦って勝利しました。 |
当麻(たぎま)は二上山のふもと(奈良県北葛城郡当麻町) |
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< 倉歴(くらふ)の戦い・・・7月5日> 夜の戦いで敵味方がわからないので,朝廷軍は「金(かね)」という合い言葉を使って敵味方を区別しました。これは大海人皇子軍を混乱させました。 |
余野(よの)公園 (壬申の古戦場) |
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<箸墓(はしはか)の戦い・・・7月7日> 朝廷軍と大伴吹負(おおとものふけい),置始菟(おきそめのうさぎ)らの軍が戦って勝利しました。 |
箸墓古墳(奈良県桜井市箸中) 後方は三輪山 |
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箸墓(はしはか)の戦い |
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<息長横河(おきながのよこかわ)の戦い・・・7月7日> 村国男依(むらくにのおより)らの軍が朝廷軍を破ります。 |
横河は今の天野川(醒ヶ井付近 息長橋) |
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<鳥籠山(とこのやま)の戦い・・・7月9日> 再び村国男依(むらくにのおより)らの軍が朝廷軍を破りました。 |
芹川と大堀山 (彦根市旭森小学校付近) |
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激しい戦いが続く |
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<安河(やすのかわ)・栗太(くるもと)の戦い・・・7月13日> 大海人皇子軍は,13日安河(やすのかわ)の戦い,17日栗太(くるもと)の戦いで朝廷軍を破って迫撃します。 |
野洲川と三上山 (近江富士) |
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瀬田の唐橋での戦い 勇気ある兵士が敵陣に突っ込みます。これがもとで朝廷軍は総崩れとなります。 |
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<瀬田唐橋(せたからはし)の決戦・・・7月22日> 最後の決戦が瀬田橋で起こりました。東側に村国男依の軍,大友皇子率いる朝廷軍は橋の西で構えています。朝廷軍は,軍の後が見えないほどの多くの兵が待ちかまえていました。 弓を構えた兵たちは一斉に矢を放ち,それらが雨のように落ちてきます。橋の中程の板をはずして敵を落とすという朝廷郡の仕掛けたわなは,一人の勇者,大分君稚臣(おおきだのきみわかみ-大津皇子に仕える者)によって破られました。稚臣はわなを見破り,弓矢の中に突撃したのです。その結果,朝廷軍は総崩れとなってしまいます。 |
瀬田の唐橋 (滋賀県大津市) |
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最後の決戦 決着をつけるため一気に対岸を目指してつっこみます。 橋での決戦は村国男依(むらくにのおより)らの軍が朝廷軍を破り,大海人軍は瀬田川を渡ります。 |
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<戦い終わる・・・7月23日> 大友軍は破れ山前(やまさき)-長等山へ敗走します。大友皇子はここで大津京を眼下に見て自害しました。25歳でした。 |
長等山 |
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<勝因・敗因> 大海人皇子の勝因 ①倉歴道(くらふのみち),鈴鹿関,不破の道を早くから確保したこと。 ②朝廷に不満を持つ近畿の中小豪族が味方になり大海人皇子の舎人たちを中心とした兵士軍の組織作りもしっかりしていた。 ③東国,特に尾張の兵が多数味方したことと,美濃,三河,伊勢,信濃,甲斐の兵が集結したこと。 大友皇子の敗因 ①朝廷内の動揺が激しく,組織作りに手間取った。 ②九州の豪族が要請に応えなかった。また,西国の豪族の団結力が弱かった。 ③畿内の大豪族が味方したが,将軍が内紛を起こして分裂してしまった。 |
明日香村 |
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<飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で天武天皇即位> 9月8日に不破を出発した大海人皇子は吉野からの道を戻り飛鳥に向かいます。 そして,15日,大海人皇子はもと蘇我氏の邸宅の跡に建てられた嶋宮(石舞台古墳の近く)に入りました。 673年2月,大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に入り,ここで天武天皇として即位します。 |
飛鳥の宮 復元模型(「大和の考古学」より 奈良県立橿原考古学博物館許可) |
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<大王から天皇へ> 「大君は神にしませば」と万葉集に歌がありますが, 大君は神であるから・・・・という意味で,大王(天皇)を神格化しています。天武天皇から「大王」を「天皇」と呼ぶようになりました。 |
飛鳥板蓋宮跡とされていますが,案内板によると飛鳥浄御原宮であった可能性が高いとされる所 |
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<皇親(こうしん)政治> 天武天皇は上級役人を皇族で固める親政を行いました。太政大臣は任命せず,大津皇子や草壁皇子など天武天皇の子や先帝の天智天皇の子らを重く用いたのです。皇族やその一族が中心となる政治を皇親(こうしん)政治といいます。 |
飛鳥より大津皇子の眠る二上山 |
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<天武天皇の政治> ①官僚制の見直しをし,家柄ではなく,勤務評定をして才能を重視した昇進制度の整備を進めました。 ②官人に食封(じきふ)を支給しました。 ③畿内の官人に武器と馬を備えさせました。 ④支配者層に冠位を授与しました。(冠位60階の公布) ⑤国史(「古事記」「日本書紀)の編纂を行わせました。(681年)天武の子の舎人親王(とねりしんのう)が中心となって編集した日本最古の歴史書です。神代から持統天皇の時代までの出来事が漢文で書かれています。 ⑥ 八草の姓(やくさのかばね)を定めました。(684年) 真人(まひと),朝臣(あそみ),宿禰(すくね),忌寸(いみき),道師(みちのし),臣(おみ),連(むらじ),稲置(いなぎ)上位4位が上級位とされた。 ⑦藤原京造営に着手しました。 |
甘樫の丘より飛鳥 |
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<持統天皇と藤原京> 天武天皇は全権を草壁皇子と鵜野讃良皇女に任せ,686年9月に世を去りました。689年,鵜野讃良皇女は飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を出します。また,庚寅年籍(こういんねんじゃく)という戸籍を作成します。 そして,持統天皇として690年飛鳥浄御原で正式に即位し,694年には,かねてより建設中だった藤原京に都を移しました。 ここは畝傍山,耳成山,香具山に囲まれた所で,中国の都にならって大きな都が造られました。 |
藤原京跡 |
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<中央集権国家の完成へ> 天智天皇,天武天皇に続き,天皇中心の政治をすすめた持統天皇,697年に太上(だいじょう)天皇(上皇)となって位を草壁皇子の子軽皇子(文武天皇)に譲ります。701年には大宝律令が出され,天皇中心の集権国家がここに完成しました。 |
藤原京再現図(飛鳥資料館提供) |
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<各地で寺院建設> 壬申の乱の後,各地で寺が多く建てられています。特に,戦地と関係の深い場所や功績のあった豪族たちの出身地には,川原寺式と呼ばれる丸い瓦を屋根瓦に使いました。愛知県春日井市の勝川遺跡(勝川寺跡)でも川原寺式の軒丸瓦が発見されています。尾張地方を支配していた大豪族の尾張氏と物部氏とのつながりから,多くの兵が大海人皇子軍として戦ったことが考えられます。 |
蓮(はす)の花の模様がある川原寺式の軒丸瓦 (愛知県春日井市教育委員会文化財課所蔵 許可) |
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