「壬申の乱」の戦い | ||
大和での戦い
6月29日開始(将軍 大伴吹負)
6月29日 飛鳥古京占領 |
飛鳥で兵をあげた大伴吹負は飛鳥古京の役人を味方にし,秦造熊(はたのみやっこくま)に「高市皇子がたくさんの軍勢を率いてきた」と叫ばせながら飛鳥寺西にあったとされる朝廷軍の陣営に向かわせた。これを聞いた兵たちは,散り散りになった。そこへ数十騎の兵で攻めた。 また,小墾田の武器庫(雷丘付近)にいた朝廷側の役人(穂積臣百足)を呼び寄せて殺し,武器を手に入れた。こうして飛鳥古京を占領した。この様子を野上の大海人皇子に知らせると,皇子は大いに喜び大伴吹負を将軍に任じた。 |
水落遺跡付近に武器庫があった(明日香村) |
余談 甲冑と刀 |
古代の甲冑は鉄製で,胴部全体を覆うようになっており,重量もあった。剣も重く,これらを使って戦うためには相当の体力と筋力が必要であっただろう。奈良時代後半になって皮を使った甲冑が登場する。全体の重量が減り,動きやすくなったばかりか,錆びることもなく,修理も簡単になった。再び鉄製の鎧が登場するのは戦国時代に鉄砲が使われるようになってからで,足軽が身につけた。 兵の衣装は不破関駐屯兵模型を参考にしてください |
甲冑と刀(「大和の考古学」奈良県立橿原考古学博物館発行より) |
朝廷-飛鳥への兵 | 近江朝廷は奪われた飛鳥古京を奪い返すため河内方面と奈良方面から飛鳥に向け大軍を送り込んだ。 朝廷側にとって飛鳥の地は特別に重要なところであった。かつての都があった場所であり,多くの豪族がいる。ここを奪い返すのは最優先のこととなったにちがいない。 |
大阪と奈良の境には生駒山・信貴山・ 二上山・葛城山などがある |
7月2日 飛鳥出発 |
大伴吹負の軍は奈良県北部の乃楽山(ならやま)を越えて大津京に進軍することを考えた。しかし,途中で朝廷軍が大阪難波方面や奈良から攻めてくるという情報を得て,直ちに兵を向かわせ,当時の主要3街道(竜田道,穴虫越えの街道,竹内峠越えの竹内街道)を守らせた。 この時の朝廷側の将軍は,難波から壹伎史韓国(いきのふひとからくに),奈良から大野君果安(おおののきみはたやす)だった。 |
二上山雌岳より大阪府南河内郡太子町を見る |
余談 穴虫峠を越える街道 |
大阪府南河内郡太子町と奈良県香芝市の境にある。 聖徳太子はこの道を通って斑鳩から河内飛鳥まで行き来したと伝えられる。また,聖徳太子の葬列もここを通って行ったのではないだろうか。太子町には推古天皇陵,聖徳太子や小野妹子の墓などがある。 他の街道と同様,瀬戸内海経由で伝えられた大陸の文化は,大阪の港で上陸し,二上山の北や南の街道を通って奈良の都へ入っていった。 この峠あたりは「逢坂」とよばれていた。 |
奈良県と大阪府の境 穴虫峠 |
余談 竹内街道 |
大阪府南河内郡太子町と奈良県北葛城郡當麻町の境にある。 二上山の南,竹内(たけのうち)街道(国道166号)を走る。推古天皇の時代613年に難波と大和飛鳥を結ぶ日本最古の官道で重要な交通路であった。この道によって7世紀、大陸・朝鮮半島の技術や文化が都があった飛鳥へ伝えられた。 |
竹内街道と竹内峠(奈良と大阪の境界)の石碑 |
7月3日 乃楽山で布陣 |
乃楽山(ならやま)に着いた大伴吹負の軍はここで朝廷軍と戦うこととした。しかし,飛鳥の守りが弱いことに気づき,荒田尾直赤麻呂や忌部首人らの兵を飛鳥にもどした。飛鳥にもどった兵たちは,飛鳥川や八釣川などの橋板をはずして盾を作り,この周辺に立てて守った。 | 平城(なら)駅近く |
7月3日 高安城の戦い |
大伴吹負の兵,坂本財の軍は朝廷軍が高安城(たかやすのき)にいると知り,攻めこんだ。 朝廷軍は信貴山近く高安山の高安城(天智天皇の時代に唐・新羅軍から大和を防衛するために築いた朝鮮式の山城)に集まっていた。 坂本財の軍が高安城に近づくと,朝廷軍は米倉に火をつけて逃げた。 現在,高安城跡には礎石のみが残る。(1999年高安山山中に石垣があるのが発見されている) |
高安山にある倉庫跡 |
余談 高安山 |
高安山に行くには生駒・信貴山スカイラインを利用する。大阪側からは近鉄西信貴ケーブルが信貴山口駅~高安山駅を結ぶ。 天智天皇は唐に攻め滅ぼされた百済を復興させ,倭国の地位を確立するために朝鮮に出兵して白村江(はくすきのえ:はくそんこう)で唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗。そのため,国土防衛に力を入れ,九州に水城(みずき)や瀬戸内海沿岸などに朝鮮式の山城を築いた。高安城もその一つ。(奈良県生駒郡・大阪府八尾市 ) |
高安山駅(近鉄西信貴ケーブル) |
7月4日 衛我河での戦い |
坂本財の軍は高安城を大阪方面に下り,難波から攻めてきた壹伎史韓国(いきのふひとからくに)を大将とする朝廷軍と衛我河(えがかわ-現在の石川)で戦った。しかし,味方の兵が少なく,敗れてしまった。そのため,坂本財の軍は飛鳥に撤退した。 | 石川と大和川(手前)合流点付近(大阪府柏原市) |
7月4日 乃楽山(ならやま)の戦い |
大伴吹負(おおとものふけい)は奈良市の北にある乃楽山(ならやま)で大野君果安(はたやす)を将とする朝廷軍と戦ったが破れ,兵たちは散り散りになり,吹負は飛鳥から宇陀へ向かって敗走した。 | 後に平城京ができた辺りも戦いの舞台となった |
7月4日 朝廷軍飛鳥へ |
大野君果安(はたやす)の朝廷軍は大伴吹負を追って一気に飛鳥に入った。しかし,山の上から飛鳥を見下ろすと,盾(橋板でつくられたもの)が立っているのを見て,防備が厳重だと判断し,兵を進めなかった。 | 甘樫の丘より明日香村を見る |
余談 飛鳥寺西門前広場 |
飛鳥寺の西門は4つの門の中で最も大きいものだった。この門の西に広場があった。ここで蹴鞠(けまり)の会がおこなわれ中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会った。 645年の乙巳の変(いっしのへん-大化改新)ではここから甘樫丘の蘇我蝦夷宅をにらんだ。 672年,壬申の乱の時は多くの兵がこの広場に集結していた。 |
|
7月4日 大伴吹負軍の 体勢建て直し |
大伴吹負は宇陀群榛原の墨坂で置始菟(おきそめのうさぎ)の軍1000人と合流し,再び大和へ向かった。置始菟は紀阿閉麻呂(きのおみあへまろ)を将軍とする東海道を大和に向かった軍の部将だった。 墨坂は榛原の西の坂と言われるが,西峠付近か。 |
榛原町西峠付近 |
7月5日 当麻(たぎま)の戦い |
体勢を立て直した大伴吹負(おおとものふけい)は壹伎史韓国(いきのふびとからくに)を大将とする朝廷軍と当麻(たぎま-北葛城郡当麻町)で戦って勝利した。韓国は軍を離れて逃亡してしまった。 大伴吹負は東国の軍と合流し,大和の上ツ道,中ツ道,下ツ道を警備した。 |
二上山のふもと(北葛城郡当麻町) |
余談 稗田環壕集落 |
外的の侵入を防ぐために村の周囲に壕をめぐらしたことが15世紀半ばの史料に書かれている。 この辺りも多くの兵士たちが行き来しているだろう。 |
稗田環壕集落(奈良県郡山市) |
7月6日 箸墓(はしはか)の戦い |
箸墓(はしはか-奈良県桜井市箸中)の北(池のある辺り)で朝廷軍と大伴吹負(おおとものふけい),置始菟(おきそめのうさぎ)らの軍が戦って勝利した。 大和での戦いはこれで大海人皇子軍の勝利が決まった。 |
箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)後方は三輪山 |
7月22日 難波へ |
大伴吹負(おおとものふけい)の軍は奈良から山を越え,大阪へ向かう。 | 奈良から大阪に続く国道166号 |
余談 十三峠 |
大阪と奈良を結ぶ道にある地蔵。ここは十三(じゅうさん)峠といい,近世では大阪から伊勢神宮参拝のルートでもあった。大阪府八尾市神立・奈良県生駒郡平群町福貴畑にある。 | 十三峠の地蔵 |
7月22日 難波を制圧 |
難波へ入った大伴吹負(おおとものふけい)の軍は朝廷軍と戦い,ここを制圧する。 聖武天皇の時代,難波に都がおかれた。 |
難波京跡(大阪市内) |
余談 三栖神社 |
奈良の戦いの後,近江朝廷との決戦に向かったと思われる。京都伏見区の三栖(みす)には,ここを通過する大海人皇子軍を,地元の人たちがかがり火を灯して暗夜を照らして歓迎したという伝説が残っている。これが毎年10月に行われる「炬火(たいまつ)祭」のいわれとされている。三栖神社には天武天皇が祀られている。 | 三栖神社(金井戸神社) 「炬火(たいまつ)祭」 祭りの写真は京都の鈴木さん提供 |
各戦いのタイトルをクリック |
「戦い開始」へもどる |
「近江での戦い」へ |
「最大の決戦」へ |
「戦いが終わって」へ | ||
「乱の後」へ |
|