「壬申の乱」の戦い | ||
総指揮 高市皇子
大和での戦い-6月29日開始(将軍 大伴吹負)
近江での戦い-7月2日出陣(将軍 村国連男依)
東海道の戦い(大和へ合流)-7月2日出陣(将軍 紀臣阿閉麻呂)
不破から出陣する高市皇子・村国連男依らの豪族 |
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壬申の乱 兵の衣装 | 不破関駐屯兵模型 |
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6月26日 大津京震動 |
大海人皇子からの駅鈴請求を拒否した飛鳥古京の高坂王からの使者が大津京に着いた。また,大海人皇子が東国に入ったという情報も伝わって,いよいよ戦と大騒ぎになった。朝廷側に勝ち目はないと判断した者たちが,大海人皇子につこうと都を出たり,山野に隠れたりした。 | 大津京模型(大津市歴史博物館許可) |
6月26日 大友皇子の指令 |
大友皇子はまず兵を集めてから戦うという作戦を考えた。そのため,大和,東国,筑紫(九州地方),吉備(中国地方),そして,近隣(きんりん)諸国に動員(どういん)命令が下された。このうち,東国へ行こうとして不破の道にさしかかった者が,大海人皇子軍に捕らえられた。この様子を見ていた一人が大津京に逃げ帰った。筑紫では九州の防備が弱くなるとの理由から動員を拒否するなど,大友皇子の意に反する態度もみられた。 | 不破(岐阜県関ヶ原町)-新幹線が走る |
6月27日 美濃へ |
高市皇子は作戦本部のある不破(関ヶ原)と桑名が離れていることから,「本営が遠いのは不便,御所を不破へ」と使いを出す。 そこで,大海人皇子は桑名郡家に 皇后(皇女-持統天皇),草壁皇子,忍壁皇子をおいて美濃へ向かう。 美濃湯沐邑(ゆのむら)は大海人皇子の私領地で大垣,安八郡から養老郡にかけての一帯(ここは太安万侶の父多品治(おおのほむじ)によって統括されていた)だった。 |
美濃国分寺跡(大垣市)跡から金生山を見る |
6月27日 不破の郡家 |
大海人皇子が不破の郡家に着くころ,尾張の国司(ちいさこべのむらじさひち)が2万の兵を連れて来た。この兵は尾張氏の力で集められたもので大軍であった。これを率いてきた国司に対し大海人皇子はこの功績をたたえたあと,兵を分けて配備した。なぜかこの国司は乱の後自害しているが,理由は謎となっている。 | 美濃国分寺・国府近くに不破の郡家があった |
余談 尾張国司 |
尾張の国司は現在の国府宮(尾張大國霊神社)付近に置かれていた。 今から1300余年前にこの付近に国衙が置かれ,国府宮が尾張国の総社として国司が祭祀した神社とされている。 楼門は室町時代,拝殿は江戸時代初期の建立。 |
尾張大國霊神社-国府宮 (愛知県稲沢市国府宮) |
余談 金生山 |
美濃国分寺跡近くの金生山からはかつて鉄鉱石が採れたという。 金生山にある化石館の館長さんが赤鉄鉱を見せてくれた。色が濃いもの(写真右下)は鉄の含有割合が高く,小さくてもずっしりと重かった。 この辺りが大海人皇子の領地だったが,これは武器をつくる上でも重要な場所でもあった。良質の鉄がとれ,製鉄もさかんに行われていたであろう。後の時代に刀剣作りがさかんになる岐阜県関市も近い。乱で使用した刀の多くは,乱開始前の大海人皇子の指令によってこの地で用意されたものかもしれない。 |
金生山の赤鉄鉱 |
余談 戦勝祈願 |
神淵神社(かぶちじんじゃ)(岐阜県加茂郡七宗町神淵寺洞) 社伝によると、大海人皇子はこの地において戦勝祈願をしてる。 「大海人皇子(後の天武天皇)吉野を出まして不破の仮宮に進出された壬申(六七二)年六月皇運挽回祈願の為聖旨を以て御山の神霊を奉斉したのに始まる」 |
神淵神社 |
6月27日 野上行宮 (のがみあんぐう) |
前線を指揮していた高市皇子と会い,作戦を話し合った。しかし,大友皇子側には優秀な部下がいて軍議もできるが,自分の元には若い皇子がいるだけと嘆く。そこで,高市皇子が,自ら神々の霊力によって諸将軍を率いて敵を討つと言った。それを聞いて父大海人皇子は手を取り,背中をなでて「油断するな」と激励した。そして,鞍馬を授け,全軍の指揮権を与えた。 野上の行宮は尾張の連-後に宿禰(すくね)大隅(おおすみ)という人物の私邸であったところを行宮(あんぐう-仮の宮)とした。また,大隅は多くの軍資金も出している。尾張の一族の大隅氏は美濃地方の支配者とつながりがあり,この地に私邸をもっていた。 |
野上行宮(のがみあんぐう)跡 さらに詳しく |
余談 伊富岐神社 |
関ヶ原に伊富岐神社がある。祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと) 尾張氏の祭神も同じ。 美濃,尾張,伊勢,三河,甲斐,信濃からの兵はこの近くに集まってきたはずである。 |
伊富岐神社 |
余談 伊吹山 |
伊吹山(いぶきやま)は岐阜県・滋賀県にあって一際目立つ高い山である。古事記にも登場する山で,冬にここから濃尾平野に吹く風を「伊吹おろし」と呼んでいる。 | 滋賀県長浜市から見た伊吹山 |
余談 南宮大社 (なんぐうたいしゃ) |
金山彦命という金属の神が祭神 祭神に天火明命(あめのほあかりのみこと)もいる。ここも尾張氏とのつながりがある。 |
南宮大社(岐阜県不破郡垂井町) |
余談 中山道 |
大海人皇子軍が集結している(わざみ)へは中山道(壬申の乱の時は東山道)を進む。甲斐,信濃方面からの兵は必ずここを通ったはず。 | 中山道今須宿 |
(わざみ) |
高市皇子が指揮をしていたのは(わざみ)という所。不破の道に近いと考えられるから,関ヶ原地域にあった。 大海人皇子は28日,29日に野上行宮とこことを往復している。 |
関ヶ原 東海道線が走る所にわざみがあったか |
余談 (わざみ) |
大海人皇子が兜を掛けた石や腰をかけたと伝えられる石が不破関所跡(不破関資料館)近く(関ヶ原町)にある。ここがかもしれない。 | 大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられる石(関ヶ原町) |
沓脱石(関ヶ原町) |
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