「壬申の乱」の戦い | ||
近江での戦い
7月2日出陣(将軍 村国連男依)
7月2日 全軍出陣 |
数万(3~4万人)の軍が不破から出陣した。 東海道を戻って伊勢国から大和に入る軍と東山道(琵琶湖東岸の近江路を通って大津に向かう)を進む軍とに分かれ出陣した。東山道の軍には前漢の高祖(=劉邦 りゅうほう)の戦い方にならって,衣服や槍の先に赤い布をつけさせ,朝廷軍と区別しやすくした。この指揮は高市皇子がとった。 |
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7月2日 朝廷軍出陣 |
朝廷軍の山部王(やまべのおうきみ),蘇我臣果安(そがのおみはたやす),巨勢臣比等(こせのおみひと)は不破を目指して犬上川に陣営を設けた。先発隊が不破の北へまわり,大海人皇子軍の背後から攻撃しようとした。そのころ,犬上川の陣営で内紛が起き朝廷軍は分裂。 | 多賀大社一の鳥居と犬上川(滋賀県彦根市) |
7月2日? 玉倉部(たまくらべ)の戦い |
玉倉部(たまくらべ-不破郡関ヶ原町玉)で最初の戦闘が開始。大海人皇子の勝利。 | 玉倉部(不破郡関ヶ原町玉) |
7月2日 倉歴道(くらふのみち)を守る |
大海人皇子は3000の兵を(たらの)に配置し,さらに,倉歴道(くらふのみち甲賀郡甲賀町-伊賀町柘植)を守らせた。 滋賀県水口町-甲賀郡甲賀町-伊賀町柘植へ抜ける道がある。これが鹿深道(かふかのみち)。ここは伊賀と近江をつなぐ交通の要所であった。 |
鹿深道(かふかのみち) |
7月5日 倉歴(くらふ)の戦い |
倉歴(くらふ)での戦い。夜の戦いで敵味方がわからないので,朝廷軍(田邊小隅の軍)は「金(かね)」という合い言葉を使って区別した。これにより大海人皇子軍は混乱し敗走した。しかし,(たらの)を警護していた大海人皇子軍側の多臣品治軍3000の兵と戦い,朝廷軍は打ち破られた。 | 余野(よの)公園 |
7月7日 息長横河(おきながのよこかわ)の戦い |
息長横河(おきながのよこかわ)-米原市梓河内での戦い。 村国男依(むらくにのおより)らの軍が朝廷軍を破る。 |
米原市梓河内の梓川 |
余談 息長横河 |
これまで息長横河は米原市醒井(さめがい)にある天野川とされてきたが,最近,その支流の梓川に比定されるようになった。 梓河内は東山道横河駅があったところで,この周辺で戦いが行われたのではないかとされている。 |
息長横河とされていた米原市醒井の 天野川・息長橋 梓河内バス停と中山道 |
7月9日 鳥籠山(とこのやま)の戦い |
鳥籠山(とこのやま)での戦い。村国男依らの軍が朝廷軍を破る。 鳥籠山は現在の大堀山(鞍掛山)か?特定はできないが,旭森小学校脇にある案内板にはこの辺りが万葉集に見られる鳥籠山だろうと書かれている。 |
彦根市旭森小学校付近の芹川と大堀山(鞍掛山) |
余談 東山道(中山道) |
東山道(とうざんどう-中山道)は現在の国道8号かあるいはそれに沿った道。彦根市内では現在も細い道が残る。 大海人皇子軍はこの道を通り,大津に向かう。逆に朝廷軍は不破に向かう。鳥籠山(とこのやま),犬上川では大海人皇子軍と朝廷軍がぶつかり,戦いが行われた。 |
彦根市出町 |
7月13日 安河(やすのかわ)の戦い |
安河(やすのかわ)-野洲川 での戦いで朝廷軍を破る。三上山が間近にせまり,この地より東国への道がのびる,交通の要衝となっている。 | 野洲川と三上山(近江富士) |
7月17日 栗太(くるもと)の戦い |
栗太(くるもと)-栗太(くりた)郡 の戦い。(名神高速道路栗東インターチェンジ付近であろう)朝廷郡を破って迫撃する。 | 栗東町 |
7月22日 三尾城の戦い |
琵琶湖西岸を南下してきた大海人皇子軍は三尾城(みおのき 滋賀県高島郡高島町西にある山城)で朝廷軍を破って大津を目指した。三尾城の場所はわかっていないが,岳山(だけさん)には古代の寺院跡も見つかっており有力候補地となっている。戦場はこの山の中であろう。 高島町内には6世紀前半に造られた「鴨稲荷山(かもいなりやま)古墳」がある。この辺りを支配していた三尾氏の墓とされる。 |
高島郡高島町で三尾城があった岳山を見る |
余談 白髭神社 |
垂仁天皇の35年倭姫命(やまとひめのみこ)によって社殿が建てられたとされる。近江の厳島とも呼ばれる美しい鳥居が琵琶湖中に立つ。 白髭神社のある水尾が崎(みおがさき)周辺は史跡が多い。764年の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱に深く関わる乙女ケ池,明智光秀が設計し織田信長の甥の織田信澄が築いた大溝城跡,琵琶湖蒸気船の大溝港 |
琵琶湖西岸にある白髭神社鳥居 |
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